鮫島慶太鮫島慶太

大学は模範解答を発表するべき!(今年の早稲田商学部・現代文の問題を実例に)

東大をはじめ、得点開示をする大学も出てきましたが
正解を発表する大学は今でもほぼ皆無の状態です。

受験生の人生を大きく左右する問題の解答が何なのかを
出題者側が公表しないのは、説明責任の放棄であると
思うのですが。もっときつく言ってしまえば卑怯です。

今年の受験生の多くが、「早稲田の商は国語が難しかった」と言っていたので
問題を解いてみました。昨年とは大違い。難しい!
昨年度までの慶應・法の小論文よりきつい!というか、
こんなの読める高校生いるの?と思うほどです。

ただ、本文がどんなに難しくても、基本的な漢字を書かせる問題などは
出来なければいけないし、難しい問題は捨てて、取るべき問題を取るのが
受験における基本戦術です。(今年の問題なら問1・3・4・10・11
辺りは確実にしとめたい問題でしょうか。)

が、今年の早稲田大の商の現代文は課題文の難解さ
以外に作問にも大きな欠陥があるように思います。
それも、漢字を除けば第一問目にきていますね。
緊張して試験を受けている受験生にはたまったものではありません。

どれくらい酷いのかというと、5つの予備校の答えが4択問題なのに3つに
割れているという状態です。こういう例は記憶にないです。

実際に見てみましょう。以下課題文の冒頭箇所です。
ヨーロッパでは、ルネサンス以降の社会の文化的、宗教的、政治的、経済的、
技術的な変動が、「人間存在の自然からの自立と疎外」(真木悠介)と「共同
態の解体とそこからの個の自律と疎外」(同)をもたらして、経験の空間に
もとづく期待の地平の安定した構造を流動化していった。こうした変動を
通じて時間は、不可逆的・抽象的・数量的・等質的で、①【人間の外部】に
―― それゆえ類としての②【人類の外部】に――客観的に存在する「均質で
空虚」なものと見なされるようになってゆく。1884年の国際子午線会議による
グリニッジ標準時の決定は、そうしたものとしての時間が、地球的な規模で
制度化されたことを示している(もちろん、だからといってそれ以後、地球上
のすべての地域、すべての人びとの営みがこの時間を基準とするようになった
というのではない。そうしたローカルな時間を生きる集団や地域を越える
社会的協働連関が、地球的な規模で標準化した時間を枠組みとするようになった
ということである)。私たちにとっての問題は、そうした均質で空虚な時間を
生み出した近代が、同時にまた集合的で進歩主義的で、空間拡張的で、主体的
あるいは主意主義的で能動的な期待や展望と共にあるものとしての未来をもつ
社会でもあるのはなぜなのか、ということだった。
(若林幹夫の文章による)

【問2】筆者は、なぜ「人間の外部」(傍線部①)を「人類の外部」(傍線部②)
と言い換えたのか。その理由として最も適切なものを次のイ~ニから1つ選び
その符号の記入欄にマークせよ。

イ 筆者は、時間を物事が繰り返されることで蓄積される人類の知からは無縁なものとして捉えたから。
ロ 筆者は、時間を客観的な数字として捉えることが、人類を空虚な存在と化してしまったから。
ハ 筆者は、人類を自然や共同体との空間的な関わりから疎外するものとして、時間を否定的に捉えられたから。
ニ 筆者は、時間を客観的に捉えることによって、近代が人類の安定した状態を流動化してしまったと考えたから。

イを正解とした予備校が2つ。
ロを正解とした予備校はなし。
ハを正解とした予備校が2つ。
ニを正解とした予備校が1つ。

私は最初に自分で解いた時、全ての選択肢を難ありと判断しました。
こうした問題の解き方は他の教科のの4択問題と同じで、消去法です。

まず分かりやすいロ)から。

「筆者は、時間を客観的な数字として捉えることが、人類を空虚な存在と化してしまったから。」

ロ)の問題点は「人類を空虚な存在と化してしまったから」の箇所が明らかにおかしい。
本文にあるように、空虚なのは時間であって人類ではありません。よってロは絶対に×。

その他の選択肢は本文の表現だけでなく、「筆者が何を言いたいのか」を理解していないと厳しいですね。

この文章、New Treasure 5の最後に学習した「近代哲学の祖デカルトの二元論」の授業でお話ししたことを理解していると 少し読むのが楽になると思いますが、さすがにそれを思い出して読んでくれた教え子はいないだろうなぁ(笑)。

主観と客観を完全に別のものとして捉える「主客二元論」により、元々存在していた「自然との一体感」のようなものが 失われ、人間は自然を「開発するもの」「支配するもの」として捉えるようになった。

このテーマはジブリ映画のテーマとしてよく出てきますよね?
CWニコル流に言えば、「川の語り、風の声を人間が聞かなくなった」ということかな。

八百万の神の存在を感じるような「自然と人間の生きた関係」が「記号化」され人間の主観から完全に切り離されたものとして 捉えられた時、かつてあった「人―自然」が一体となって生まれる関係は死んでしまった、これが「疎外」ということ。

私は現代文の専門化ではないので、ざっくり解説してしまいましょう。
「時間」を客観的存在として見なすというのはどういうことか?

幼い頃、ザリガニ釣りに夢中になって辺りを時間の流れを忘れた経験がありますが 人間にとって、「時」というのは、「主観」とともにあるもので、「楽しい時間が速く過ぎる」 「辛い時間は長く感じる」といった経験は誰にでもありますよね?

ところが、時計を見て、「客観的な時間」の方を人は「正しいもの」として認識するのですが
この「正しい時間」は「人の関わり」が完全に排除された「均質で空虚なもの」でしかありません。

中高6カ年が「生徒全員に平等」に流れたというのは、「客観的な時間」の観点にたてばそうですが
一人一人が生きている現場では、必ずしもそうではないはずです。
また、個人レベルで言っても、「中学の3年間の方を高校3年間よりも長く感じている」生徒が多いのでは?

要するに、「時」の流れも、それを人間が生きれば、伸びたり縮んだりするようなものなんだけど、
それを「記号化」「数量化」することで「均質で空虚」なものになるということですね。

私自身もこの文章の言わんとしていることを、出題された範囲だけで十分理解出来ている自信はありません。
が、与えられた文章から、私としてはそんなことを考えながら読んでいます。

授業で何度も強調しましたが、「分かる」というのは「分かっている人間」からはとてもシンプルなイメージとして掴まれているということ。つまり、自分の側に「具体」がなければ、「抽象」は理解出来ません。

さて、問題に戻りましょうか。

次にハ)です。
「筆者は、人類を自然や共同体との空間的な関わりから疎外するものとして、時間を否定的に捉えられたから。」

「(近代以降の人間が考える)時間=空虚」と本文にありますが、「時間=否定的」という記述はどこにもありませんし本文の言いたいことを考えると明らかにおかしいと私は判断します。

また、問題を解いて「おや?」と思った人もいるかもしれませんが、本文には「共同態」とあるのに、選択肢は「共同体」ですね。これ、注も付けずに高校生に出題してよいのか、私は疑問に思います。

哲学を少しかじっているのでピンときましたが、普通なら読み飛ばしてしまう用語です。

(入試問題には注はないですが)共同態 とは

ゲマインシャフト。ドイツの社会学者F.テンニースが唱えた社会類型の1つ。
ゲゼルシャフトに対し、人間に本来備わる本質意志によって結合した、 実在的・有機体的統一体としての社会。
ゲゼルシャフト=人間がある目的達成のため作為的に形成した、観念的・機械的組織体としての社会。

つまり、「共同態」とは人間が「生きた関係をリアルに感じている社会」で、それが解体されたというのは「社会」と「自分」との間に「生きた関係をリアルに感じられない社会」ということ。

思い切って言えば、「なんだこのクラス。私と何の関係があるの?」というのが後者で、
「ここで生きている私以外考えられない。全てが私にとって大切」なんて感じられるのが前者。

これもホームルームなどで話しましたが、「学校がつまらない」という生徒がいますが、つまらないのは「学校」でも「お前」でもない。「お前が関わる学校・お前に関わる学校」なんだと。
生きた関係は、「主客を分化し二元論化した視点」からは絶対に生まれない。

問題に戻ると、「共同体」という安易な言い換えもおかしいし、「時間=否定的」という図式もおかしいので×。

残るは イ)とニ)の2つです。

イ 筆者は、時間を物事が繰り返されることで蓄積される人類の知からは無縁なものとして捉えたから。
ニ 筆者は、時間を客観的に捉えることによって、近代が人類の安定した状態を流動化してしまったと考えたから。

両方正解と判断も出来るし、両方不正解とも判断出来るような気がします。

イ)は 「時間」の客体化・客観化が、「時間」を「人間の生きている現場」から切り離したという点では正解ですが問題は、「筆者は~捉えたから」の箇所です。近代二元論に基づく「時間の客観化」は筆者の思想・解釈ですか?
そんなことは言い切れませんよね?恐らくこういう文章書く人なんだから、安易に「二元論」を自明の理だと考えているとは思えません。よって私は×だと判断します。

残ったのは ニのみ。この段階で私の味方をしてくれる予備校さんは1/5になりました(笑)。

しかし、ニについても実は正解とは私は言い難いと思っています。

本文は 「近代の○○的変動」が、「経験の空間にもとづく期待の地平の安定した構造を」流動化していった。

とあります。つまり、「時間」に対する人間の認識の変化は、「近代の○○的変動」の結果、あるいはそれと同時にもたらされたものであって、「流動化」の主語としてはおかしいのではないでしょうか?

さらに言えば、「近代が人類の安定した状態を流動化した」という表現は外れているとまでは言えなくても「人類の安定した状態」という表現が大雑把過ぎるように思います。

よって、ニもおかしい。これで5つの予備校全てを敵にまわしましたね(笑)。

そもそも、設問からして違和感を覚えました。

筆者は、なぜ「人間の外部」(傍線部①)を「人類の外部」(傍線部②)
と言い換えたのか。その理由として最も適切なものを選べ。

「人間」を「人類」と言い換えた理由として、イ~ニに適切なものは直観的に1つもない、と私は判断しました。これまでの私の解説はあくまで本文と矛盾しないかどうかを確認する消去法に過ぎません。

筆者はなぜ、「人間」を「人類」とわざわざ言い換えたのか?

私はシンプルに、「近代化の流れは、影響受けず人間性を維持出来る人間がいないと言えるほど抵抗しがたい大きな力だ」と筆者が強調したいからではないかと勝手に思いました。そもそも、理由としてイ~ニはないでしょう?(筆者が言い換えた理由についてはもう少し考えてみたいですが)

私が受験生なら、仕方なくニを選ぶと思います。それも出来るだけ時間をかけないことを優先して。

でも、「分からないこと」に出会って、真剣に全力で必死に考える受験生はどうなります?

受験生ではない高校生の私なら、絶対立ち止まったと思います。「分からない」ものを素通りしたくないので。

今教えている生徒の大半が私にとって魅力的なのは、彼女たちは「分からない」ことをそのままにしたくないという「知への飢え」をみなそれぞれ持っている点です。

分かりやすいですよ~、こちらが上手く説明出来てないと感じながら説明するとすぐつまらなそうな顔するし諦めて意識が飛ぶような生徒もいますが、食いついてくる。

そんな生徒がこんな問題解かされたんだと思うと、私は心の底から怒りがこみあげてきます。

せめて、出題者は「正解」を発表してくれませんか?

合否なんて関係ないです。真剣に考えた全受験生に対する最低限の礼儀だと思うのですが・・・。

この記事を書いた人

ESN英語教育総合研究会

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