今年も夏休みは教材作成。
朝から晩、昼から朝
ひたすらパソコンと向き合う夏。
ふと、昔のことを振り返ってみた。
私が教員を始めた25年前には
既にコピー機も製版印刷機もあった。
教員が自作のハンドアウトを生徒に
配布するのは珍しいことではなかったが
まだ教科書だけを持って教室で授業する
先生も多くいた。
ただ生徒の評価は
教科書だけで授業する教員よりも
「お土産」としてのハンドアウトを
くれる教員に対して高くなる傾向が
あったように思う。
ハンドアウトの量であるような空気も
あった。
授業の能率を考えた場合、
つまり限られた時間で生徒に
いかに多くの情報を伝達するか
いかに練習量を積ませるか
いかに予習させ反転授業的なものを
実現するか。
こうした観点から見ると
教科書だけの教員は分が悪い。
私自身も自作のハンドアウトを用意せず
授業を行ったことはほぼ皆無である。
最近ではiPadで板書を省くなど
準備するものも増えた。
果たして、それで授業は
進歩したと言えるのか?
単なる情報としての知識は
ネットで誰でも手に入れることが
出来る。
だから、教員の役割は
知識の伝達ではなく
知識・情報を得る方法
一次資料にあたる重要性
そうしたものを学ばせることだ、
といった声をよく聞く。
確かにその通りだ。
しかし、私が感じる違和感は
別のところにある。
昔の先生には「匂い」があった。
いわゆる「教壇人」としての先生が多くいた。
歴史を学んだからこその言葉
古典を学んだからこそのものの見方。
そうしたものを
生徒は無意識にせよ感じたものだ。
今の私達には、いや私には
あるのだろうか。
自信が持てない。
そこに「説得力」がなければ
若者には伝わらない。