探究研究鮫島慶太

探究をめぐって 今学校で起こっていそうなこと

総合的な探究をめぐって、それぞれの学校がそれぞれの課題に向かっているのが現状だと思います。
今回は学校現場で起こりがちなことを出発点に、探究とは何か?という本質ではなく、学校という組織が探究という課題を前にしてどういう状況にあるのかについて、私見を紹介致します。

① 『新しい教育観が上から降ってきた時の現場の反応』

アクティヴラーニングの時もそうでしたが、新しい教育観はしばしば『ゲームチェンジ』と見なされることが多いのではないでしょうか?

・受験指導で存在感がなかった教員 ⇒ これからは受験学力ではなく、新しい学力を目指しての指導が求められる時代だ。
・受験指導で存在感を発揮していた教員⇒ アクティヴラーニングや探究などは所詮『絵にかいた餅』であり、そんなものをやれば子たちたちの学力は低下する。

もちろん、どちらもできる、どちらにも前向き、どちらもできない、どちらにも後ろ向きという教員は学校によって様々だと思います。
私が嫌いな『4象限マトリックス』を使うと、現状は以下のような4つの象限で分類できるのではないでしょうか?

 

上記の4象限マトリックスから、4つの分類ができると思います。
今回は生徒と教員を別にしてマッチングということではなく、生徒・教員を一緒にして考えてみます。

■ 第一象限【右上象限】:「両方ある」
受験学力・受験指導力 〇 ・ 探究型学力・探究支援力 〇

生徒像
難関大学にも対応できる学力を持ち、探究的学習にも意欲的。
学会発表やコンテストなどで成果を出す生徒も。
主体的でプレゼン力・思考力・表現力が高い。

教員像
大学入試指導にも精通しながら、PBL・探究支援にも熱心。
複数の教科横断的なプロジェクトを企画・運営できる。
ICTや学外リソースも積極的に活用。

超進学校の多くが『総合探究』で慌てていないのは当たり前ですね。
受験学力が高い学生なら、単なる受験対策などではモチベーションは上がりませんし本質的な学びに近づこうとするものです。
それは大昔から変わっていないのではないでしょうか?
またこういう学校では、受験教科=主役 非受験教科=脇役といった歪んんだ文化も少ないように思います。
なぜなら、すべての教科は受験教科であるとかないとかに関係なく貴重な学びの場だからです。

ただ、学校全体が『両方ある』に属していなくても、生徒も教員も両方ある、というケースも当然あります。
その場合には、以下のような悲劇が生まれてくるでしょう。

【課題】
・人的リソース不足 → 両方ある先生に負担が行きやすい。更に悪い環境だと両方ない教員やその他の教員が責任ある立場にいることで両方ある教員はバーンアウトしやすい
・同僚との温度差  → おそらく組織内で孤立感に悩むことになるでしょう

【解決】
・チーム制導入、T.T.活用、教員の多様性確保 などが考えられますが、恐らくうまくいきませんね(笑)。無能な管理職であれば、両方できる人材をリーダーに指名してなんとか動かそうとするでしょうが、そのリーダー本人が無能な訳ですから、空疎なスローガンばかり発するだけで、指名された優秀な人材は潰れていくことになりますね。さっさと転職するしかないのかも知れません。
ただ、組織が両方できる生徒・教員が多数派なのであれば、課題がある生徒も教員もお手本が周りにゴロゴロいるでしょうから、問題は発生しにくい。
超進学校が『総合探究』が重視されるからと言って慌てることがないのは当たり前だと思います。

■ 第二象限:【左上象限】:「探究型学力・探究支援力はある」
受験学力・受験指導力 ✕ ・探究型学力・探究支援力 〇

生徒像
社会問題や地域課題、SDGsなどに関心が高く、自ら課題設定して動ける。
ただし、基礎学力や試験対応力が不足しがち。

教員像
探究学習の設計・ファシリテーションに長けている。
論述やプレゼンは指導できるが、受験問題の指導は不得手。

古くからある学校ではあまりないと思いますが、新しい学校にありがちなタイプです。全体ではそれほど多くはないと思います。
ただ、左下の『両方低い』という学校が改革を行う時には、第四象限(右下の受験学力は高いが探究力は低い)ではなく、第二象限を目指すのが最近では一般的だと思います。
ネオリベ社会的な価値観が主流で『牧歌的な学校』が支持を失い、『受験で勝ち経済力のある自立ができる力』が求められた時代では第四象限(右下)を目指すのが一般的でしたが、現在では国内の大学受験の勝ち組そのものがグローバルエリートにはならない時代ですし、社会にでて必要とされる力についても変わっていることが認知されていますので、特に都市部では、スパルタ式の管理教育で受験実績向上を目指す方向性は支持されにくく、仮に少し実績が出たところで、それなりの基礎学力を備えた子ども達に選んでもらえるとは思えません。

また、年内入試が拡大している昨今では、この第二象限をまず目指すということが、進学実績に必ずしもマイナスにはならず、国公立大学の総合型や私大の総合型で成果を挙げるということに繋がっている例も少なくないと思います。ただ、課題としては、探求型学力の高い生徒と探求支援力の高い教員の両方が揃っているという環境を創ることが相当難しいということになると思います。こういう環境では、教員自身が学ぶ意識を強く持つことはもちろん、学ぶ機会を豊富に与えてもらえることが必要です。また、『やらされ探究』では探求型学力はつかない訳ですから、学びの芽を持つ生徒の阻害要因にならないように配慮しながら、アカデミックな分野に繋がる探究を志す意識が出てきた生徒への支援を集中的に行うことが、学びの場としての学校の改革には必要になるのではないでしょうか?『探究を花壇のようにしたい』というセリフで全生徒に探究的なアプローチを強引にさせる、なんちゃって探究教員が最大の阻害要因であることは言うまでもないでしょう。

■ 第三象限:【左下象限】:「両方ない」
受験学力・受験指導力 ✕ ・ 探究型学力・探究支援力 ✕

生徒像
学力も探究力(やりたいことが見つからない)も伸び悩み、自己効力感が低い。
他者と比べて自信を失いやすい。

教員像
教科指導への自信がなく、探究活動にも消極的。
指導経験が浅いか、外的環境に消耗している。または長年『先生』と呼ばれて勘違いしてほとんど勉強してこなかった。

どの学校にも、こういう先生も生徒もいるでしょうし、単純なグルーピングではなくグラデーションであることを考えると、自分はここだと思ってしまう教員も生徒も少なくないのだとも思います。
ただ、まず私が最初に断ったように、4象限マトリックスは価値観を非常に制限し限定してしまうものです。

受験学力が低くて、探究力が低ければ価値はないのですか?
受験指導力が低くて、探究支援力が低ければ価値はないのですか?

そもそも、探究はアカデミックな世界に繋がるものとは限りません。企業や地域のPBLに繋がるものとも限りません。
一人一人の子ども達のWell-beingは企業社会の外にもあるし、地域社会の外にもあるはずです。
また、日本の教育はあーだ、こーだと言われますが、少なくとも中等教育に至るまでは世界トップレベルですし、そんなに自己否定すべきものでもない。
迷える子ども達に寄り添う、といった場としては部活動がその役割を果たしてきた点も多かったと思いますが、受験や特別な探究だけを軸に考えることそのものがおかしいのだと思います。

が、問題は現在の市民社会がその『牧歌的学校像』を支持していないということ。
そして、本来であれば職業訓練や職人としてリスペクトされていた分野がドンドン狭くなって、多様な子供たちの居場所が少なくなっているということ。
そもそも、受験学力にせよ、探究力にせよ、人としての価値のほんの一部でしかないものを、暴力的に全体に押し付けるような発信こそが危険なのではないでしょうか?

ただ、理想論としてはそうですが、生徒一人一人ではなく学校として考えた場合、この左下の象限に位置する学校は、この4象限評価軸の外に価値を創り出すか、または右か上を目指すしかありません。
もちろん、斜め上に向かうことは無理ですよ(笑)。でも、実はそういうタイプの変化をした学校もありますよね。それは壊して全く新しいものを創るという方法と様々な業界的な仕掛けによるものだと思われます。
現在の市民社会で、こういう動きが歓迎されることは残念ですが、少なくとも現実にはそうしたこともあります。であれば、少なくとも、これまでのリーダーには最も痛みを味わって責任を取ってほしいですね。
ここが甘いのが日本社会の未熟さだと思うのですが。

■ 第四象限【右下象限】:「受験学力・受験指導力はある」
受験学力・受験指導力 〇・ 探究型学力・探究支援力 ✕

生徒像
定型的な問題には強いが、未知の問題や発表活動は苦手。
受験の合格が通過点ではなく目標になり、受験が終わればバーンアウトしてしまう。

「正解を出す」ことに安心を求め、答えのない問いに不安。

教員像
模試や入試データ分析に強く、指導経験も豊富。
講義型の授業や管理型指導に自信があり、探究活動には苦手意識や嫌悪感。

こういう学校、こういう生徒、こういう教員は少なくないとも思いますが、別に多数派という訳でもない。
ですが、世間的な受験校へのイメージは、『あいつらは試験はできるけど』というバイアスから多数派だと思われてるようにも思います。

また、仮にここに当てはまるのであるとすれば、学校も先生も生徒も、『和風科挙』が確実に終わりに近づいている現在、また確実に終わる近未来(2035年前後?)には
最上位を除いて、恐らく居場所がなくなってしまう可能性すらあります。

実際、首都圏ではいわゆるスパルタ型で進学実績を出してきた学校の凋落は珍しくありません。ただ、地方や関東圏でも少し外れるとまだまだ根強い支持を持つ学校もあります。
でも、少子化の波は確実にこれらを壊していくように思います。

この象限の世界では、勉強って本来面白いもの、という価値観や文化をどれだけ創れるかということに尽きると思います。
ライフハックのための勉強ではなく、自分が楽しいと思えるものを学ぶことがどれだけ人生を豊かにするか?
それは、きっと子どもから、ではなく、大人からそう変わらないといけないように思います。

解像度の低い分析ではありますが、今回は『探究をめぐって 今学校で起こっていそうなこと』について私見を述べました。

これは自己否定と反省でもあるのですが、教員も生徒も保護者もポジショントークが好きです。
『だって人間だもの』という話で、それ自体が悪とか許すまじといった話ではないのですが、なぜ自分を守ってしまうのか?

それは、そういう『場』だから

なのではないでしょうか?

・先生だけど、私はこれができない
・聞いて欲しいことがあるけど、怖くて言えない
・周りに異端視されたら生きづらくなる

日本社会の息苦しさ、即戦力を求める資本や経営層の身勝手さ、同調圧力

学校の課題として錯覚されていますが、ほとんどが社会の課題であり、それを変えようとしない大人の課題であり学び不足ではないでしょうか?

と結論はいつも同じようになってしまいました。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。

今回はコンサル目線ではなく現場の教員の印象に基づいた内容として書いています。
細かいエビデンスなどを示して、具体的な方策などを添えるべきなのは分かっているつもりですが
とりあえず現場の先生方を中心に学校という場に生きる人たちに何かのヒントになれば幸いです。

 

 

 

 

 

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