昨日は最近の教育改革について、2000年あたりからの経団連・経済同友会などの提言、中教審答申などの勉強会に参加しました。少人数の非公式の勉強会なのですが、個人的には非常に勉強になりました。その中で平成26年(2014年)の中教審答申と経団連の最近の発信が話題になったので備忘録としてまとめてみます。
① 2014年12月22日 中教審答申
新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(答申)
この資料、改めて読み直してみると、「教育改革についての方向性」について個人的には賛同出来る部分が非常に多かったことに驚きました。
(4)高大接続改革を推進するに当たって留意すべき点
「高大接続」とは、高校生の全てを大学教育に接続するということではない。(中略)高大接続を議論する際には、高等学校卒業生の多様な進路を踏まえ、国家及び社会の責任ある形成者として、自立して生きる力を高等学校教育において確実に育むという視点が重要である。
あわせて、高等学校卒業後、生徒がどのような進路を選択するにせよ、経済的な理由
のみによりそれが左右されることのないような配慮も必要である。
⇒ ここでは、高大接続改革の本質が、高校教育から大学教育への準備に限定されるものではなく、高等学校の教育そのものがまず独立したものとして、社会に出て行く子ども達の成長のためのものであることが述べられている。授業だけでなく学校生活そのものが自己目的的なものではなく、様々な活動を通して生徒が成長出来る機会・環境を高校が準備するものであるべき、という公教育の意義がきちんと発信されている。だからこそ、答申は次のように続く。
また、「高大接続」の改革は、「大学入試」のみの改革ではない。その目標は、「大学入
試」の改革を一部に含むものではあるが、高等学校教育と大学教育において、十分な知
識・技能、十分な思考力・判断力・表現力、及び主体性を持って多様な人々と協働する
力の育成を最大限に行う場と方法の実現をもたらすことにある。
⇒ しかし、実際の高大接続は「民間英語試験導入」「センター試験から共通テスト」「共通テストにおける記述式導入」「1点刻みではない入試」といった方向に進んだように見える。なぜ、この教育改革がそこにフォーカスされてしまったのか?それは「現在の教育の実態」を踏まえた具体的改善策の不在が大きいのではないかと考える。
つまり、「どこの大学に入学出来る学力をつけたか?」という入試学力という観点から現場の学校教員も保護者も学校の価値を評価する流れが大勢であることを前提に、それをどう変えるのか?についての具体的な方策についての発信がない。そもそも、スクリーニング機能としての入試とその先の社会という路線、資本を含む大人の在り方や社会との関わりについても論じられることがない。「高い進学実績・英語教育・グローバル教育・ICT」といったものが教育市場で売れてしまっている現実があり、そんな中で高等学校における教育が「社会に出て一人前になる資質をどうつけているのか?」について、教育現場からの自画自賛的な発信があっても、そんなものに説得力を感じて貰えるとは到底思えない。また、学校の外から学校の課題を批判するだけの人達に、大田堯先生のような深い教育観を感じることもほぼ皆無である。
分かりやすく言えば、学校内からは「これまでの学校教育の否定を受け付けない、変わりたくない、今売れているものを手放せない」という膠着を感じるし、学校外からは「社会に出て役に立たなければ意味がないんだよ」と今社会で停滞している自分を棚に上げた無責任な教育への一方的な押し付けを感じる。
授業・家庭学習の学びを通して高校の3年間でどのように成長したのか?
行事・部活動・委員会・生徒会活動を通して高校3年間でどのように成長したのか?
高校という環境が子ども達の成長にどのような成長を促す仕組みになっているのか?
これらは、簡単に口で説明して理解して貰えるものではない。にも関わらず、学校の発信はホームページ、通信その他を通した一方的発信が中心であるように思える。そしてその発信は高大を問わず、ますます画一化しているのも以前指摘した通りである。
ここにあるのは閉じたムラ社会化した学校と、新自由主義的な価値観の中で分かりやすい「成果」を求める「お客様意識」のマインドだけではないか。また、正直個人的にはどうでもいいけど、「教育が変わらなければ」と改革を振り回すだけに見える焼き畑農業のようなどこに根があるのか、どこに向かっているのか分からないような大人のマインドもあるかも知れない。
学校は子ども達の成長のための場であるはずであるが、教員というムラ社会の大人の管理の都合から仕組みが出来ており、そこが変われていない部分も多い。また、一方でその学校を外側からPBL(Problemの方ね)の対象とばかりに糾弾し、学校そのものを壊そうとするだけの大人もいる。その動きで解放される子どもは全体のどの程度いるのか?
学校を共同体として再生する努力なしに内からも外からも変わるはずはないわけだけど、その学校が「外」と接する場としての「大学入試」に、この改革がフォーカスされてしまったのは必然のように思える。
(3)高大接続改革の意義
特に、18歳頃における一度限りの一斉受験という特殊な行事が、長い人生航路における最大の分岐点であり目標であるとする、我が国の社会全体に深く根を張った従来型の「大学入試」や、その背景にある、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を一点刻みに問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行うことが公平であるとする、「公平性」の観念という桎梏
しっこくは断ち切らなければならない。大学入学者選抜は、一時点の学力検査によってその後の人生を決定させるためのものではない。先を見通すことの難しい時代において、生涯を通じて不断に学び、考え、予想外の事態を乗り越えながら、自らの人生を切り拓ひらき、より良い社会づくりに貢献していくことのできる人間を育てることが高等学校教育及び大学教育の使命であり、これからの大学入学者選抜は、若者の学びを支援する観点に立って、それぞれが夢や目標を持ち、その実現に必要な能力を身に付けることができるよう、高等学校教育と大学教育とを円滑に結び付けていく観点から実施される必要がある。
そのためには、既存の「大学入試」と「公平性」に関する意識を改革し、年齢、性別、
国籍、文化、障害の有無、地域の違い、家庭環境等の多様な背景を持つ一人ひとりが、
高等学校までに積み上げてきた多様な力を、多様な方法で「公正」に評価し選抜すると
いう意識に立たなければならない。
⇒ ここで述べられている高大接続改革の意義には大賛成である。「従来型の選抜=公平とする」考えを全否定し、「従来型選抜=科挙=公平・公正ではない」とする改革のコンセプトを力強く訴えている。で、やっぱり、同じ疑問が生まれるんですよね・・・。それなら、なぜ「センター試験⇒共通テスト+記述式+民間英語試験」という議論に矮小化されたのか?
恐らく、現行の試験の課題にフォーカスするあまり、「18歳頃における一度限りの一斉受験という特殊な行事」の異常さよりも、「現行の試験問題をどう進化させるのか?」という方向に議論がずれてしまったように思えます。この点については、中教審の中にいるわけではないのでどういう議論でこうなってしまったのかは私などには分かりませんが、「18歳一発選抜・科挙」という課題の解決は、「高大接続」という視点ではなく、社会のグランドデザインの変更による無効化であるべきだったと思います。どんなに優秀な大学を出ても、使えない人材は切られる(高流動)。しかし、人材としてリカレントの場が保障される(高保障)。つまり解決は試験の変更ではなく、現在の社会をフレキシキュリティの方向へ持って行くこと。
正規・非正規による分断が進み膠着している社会が高流動になれば、そもそも、「学歴そのもの」が無効化される可能性も高い。当然、社会的混乱が生まれるから「高流動」と同時に「高保障」として「生涯の学び」が保障される必要がある。教育の問題を教育だけで解決しようとすることは無意味であるばかりか、非常に非生産的な結果になってしまうのではないか?
ちなみに、仮に日本がフレキシキュリティに向かうとしたら
1)低流動低保障⇒高流動低保障⇒高流動高保障
2)低流動低保障⇒低流動高保障⇒高流動高保障
3)低流動低保障⇒高流動高保障
のどのルートになるのか?ということも話題になりました。
1)の可能性が最も高い、という意見で一致してしまいました。多くの差別的構造が崩壊するには・・・。なんだかやり切れない思いです。
② 2020年7月14日 Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言(経団連)
Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言
まず、財界発信=悪とする考え方は、「民間 vs 公教育」という安易な二項対立にしかならないし、現在の「公教育」においても、学校は多くの民間企業やNPOなどに支えられて存在しているものだという点が話題になりました。
1976年の文科省発信(http://ur0.work/jdZV 中学校に宛てた通達です。高校は含まれていません)には
①進路指導 や学習指導 が模試などの材料に過度に依存した受験指導に偏ってはいけない。
②模試などの業者テストを授業内で扱うのは問題である。
③業者の商行為に教員が関わることはあってはならない。
といった項目が並びます。しかし、現在の多くの学校で「民間」の力を全く頼りにせずにやっていけるのか、を考えると明らかにそうとは言えないのが現状だと思います。模擬試験の校内行事化、センター試験後のデータリサーチといった受験産業活用のみならず、様々な民間の力を借りて学校教育は成り立っています。確かに、教育そのものの「民営化」は教育をpublicなものからprivateなものに変え、新自由主義的な自己責任論を土台に、教育の再配分機能を疎外することは間違いないと思います。そこにはpersonalなものを大切にする視点はない。しかし、かといって、学校の側が「民間」を「業者」と下に見る傲慢な態度もそもそもpublicの存在としての学校から逸脱している思い上がりだと私は感じています。子ども達の教育に関わるべきは学校の教員だけだという特権意識がまだまだ残っているから、「教員免許?なんぼのもんじゃい」という声も時には説得力を持ってしまうようにすら思えます。教員よりもスキルがはるかに高い方々は社会に沢山いるのですから。
私自身は多くの教育関連企業の方々や企業、NPOの方々、時には大学生からも学ぶことも多いし、進路通信やイベントなど助けて頂くことが非常に多く感謝しています。「学校に穴を空ける」ことは、一部「浮きこぼれ」と言われる生徒達の解放のためだけでなく、私たちのような学校現場という狭い世間に生きている大人以外との繋がりを子ども達に持って貰うためにも絶対に必要なことだと思っています。
ですから、Society 5.0という訳の分からないものをもちろん鵜呑みには出来ませんが、経済界から発信される内容についても、まず真摯に向き合った上で、それぞれの課題を発信出来るような姿勢を持つべきだということが話題になりました。
そういう視点で見てみると、
1)中教審・文科省の発信のソースは、経済界である場合が多く、官邸(再生会議)・国大協などの合意の上で「国策化」されていること。
2)その内容については、現代の日本社会が抱えている課題を経済界のみならず多様な有識者の知見も取り入れ見事にまとめていること。
3)「大学において求められる能力からバックキャストして」とあるが、「資本側が求める能力からバックキャストしている」こと。つまり経済界があくまで自己の存在を「教育の外」に置いている点が課題ではないか?ということ。
4)結果、社会の抱えている課題の要因を教育の課題と同一視し改善を求めていること。
5)財界の提示している教育の課題や改善案には「対面」と「オンライン」のハイブリッドも含め学校現場が取り組む価値があるものも少なくないこと。
といったことがあげられます。ここでも、学校は学校として「聖域であるべき」という考えはもちろん大きな間違いですし、かといって「日本社会の課題を子ども達がなんとかしろ」というのはよいとしても(よくないですが)、では「経済界はどう変わるの?停滞の責任、誰にあるの?」「要するに子ども達に変われと言ってる大人はどう変わるの?」「そもそもQOL高めるような人生観は子どもだけでなく私たち大人の側にも必要では?」といったことについては非常に鈍感というか、自分達の存在意義を過大評価してない?という見方も出来るように思います。
私自身まだまだ勉強不足なのでついていけていないことも多いのですが、こうした視点を与えてくれる機会を持てること自体が私は運が良いと思いますし、自分の日常にこうした学びの成果をどう活かすのかに繋げなければと改めて考えさせられました。