女子教育研究会FEN 第24回オンライン学習会(2026年6月27日)鮫島発表内容報告

教育は、どんな社会を前提に語られているのか――社会の「受け皿」から問い直す

 

週末の夜、台風接近のなかにもかかわらず、多くの方にお集まりいただきました。今回は私自身が登壇者として、「教育は、どんな社会を前提に語られているのか」というテーマで、約70分お話しさせていただきました。普段は司会の側に回ることが多いので、いつになく緊張しましたが、論文にまとめる過程で得た気づきとあわせてお伝えしました。本稿はその内容のレポートです。

目次

出発点――「誠実・勤勉・協調」は、本当に生徒を守るのか

話の入り口に置いたのは、本校にとっても馴染みの深い「誠実・勤勉・協調」という三つの言葉でした。誰もその価値を疑わない徳目です。ただ私は、この三つが生徒の将来にとってかえって危ういものになりはしないかと、長く考えてきました。

誠実であろうとしたがゆえに、勤勉であろうとしたがゆえに、友愛という言葉の価値を信じたがゆえに、それが踏みにじられる場で心が折れてしまった卒業生たちもいます。

伝えたかったのは、これらの徳目に価値がない、ということではありません。価値あるものがその本来の力を発揮するためには、その価値がきちんと評価される環境がセットで必要だということです。そして「誠実であれ・勤勉であれ・友愛の精神を持て」と教えたのは、ほかならぬ私たち教員です。自分が発した価値が何を生んだのかに、私たち自身も向き合う必要があるのではないか。私たちが「誠実」であるならば、それが当然の義務ではないか。

ここから、本日の核心となる問いが立ち上がります。教育内容は、社会という「受け皿」から独立に決めることはできないのではないか。 どんな教育も、それが生きる社会とセットでなければうまくいかないはずです。では、いま「新しい教育」が求められているとき、その教育が活かされる社会はセットになっているのでしょうか。

第2章 政策言説は、どんな社会を想定しているのか

学校の外から最も強く発信されている四つの主体――CSTI(内閣府 総合科学技術・イノベーション会議)、経団連、経産省、文科省――の言説を順に検討しました。これらに注目するようになったのは、西尾先生にご教示いただいたおかげです。それまでは英語教育や現場の負担といった狭い視野でしか問題意識を持てていませんでした。

これらの提言の多くが前提とする未来像が「Society 5.0」です。ただ、ここには二つの問題があると考えています。

第一に、未来予測の解像度が低いこと。2016年に掲げられたこの構想では、AIも登場します。しかし、ここで言う「AI」はIoTが集めたビッグデータを解析する最適化エンジンに過ぎず、わずか数年後に登場する生成AIをまったく予想できていませんでした。物流ドローンの絵も、日本の住宅事情ではおよそ非現実的です。第二に、短期でコロコロ変わること。国際情勢の変化を受け、EUを含め想定する社会像はここ数年で大きく変更されています。向かうべき目標が揺れ続けるなか、現場の教員も子どもも「一体どこへ連れて行かれるのか」という不安のなかで教育を続けることになります。

四つの言説の中身も整理しました。CSTIは「分野・業界・人材の流動化が当たり前になる社会」を強く打ち出します。経団連は現在の教育と大学入試に最も直接的な影響を与えてきた主体で、センター試験へのリスニング導入も、民間4技能試験も、留学の義務化も、その提言にさかのぼれます。「学歴社会から学習歴社会へ」「偏差値教育は古い」という文言も確認できます。経産省を一言でまとめれば「好きなことをやれ」――探究を全面化せよ、というメッセージです。文科省は、これらを教育用語に翻訳し現場に実装する「下請け」の役割を担い、相当なプレッシャーのなかで資料を作っているのだろうと思います。

問題は、いずれの言説も現在の社会システムを否定はするものの、その先にどんな社会を作るのかはふんわりとしか語っていない点です。「社会が変わるから教育も変われ」と言う。では、どう変わるのか。どんな仕組みにするのか。そこへの発信がほとんどありません。社会変革は約束されていないのです。

これらが機能するためには、本来以下の3つの条件が揃っていなければなりません。学校で育てた能力が分野を越えて評価される能力の転用可能性。18歳前後の学力による初期配分が、その後の学びによって修正される修正可能性。そして学び直しを自腹ではなく社会が支える学び直しの社会保障。この三つが存在しないなら、いま出ている教育改革の言説はすべて社会と不整合を起こす、というのが私の見立てです。

第3章 現実の日本社会――その社会は本当に存在するのか

ここからは、一方的に私のお話を聞いていただくだけではなく、クイズ形式で五つの問いを投げかけながら、現状のデータを確認しました。

転職について。 転職そのものは増えていますが、年収や評価が上がる「上昇移動」につながるのは、前職と似た作業を選んで経験を接続できた場合が中心で、しかも30代半ばという年齢の壁があります。国際比較では、転職で年収が5%以上上がった人の割合も、役職が上がった割合も、日本は欧米・中国に比べて圧倒的に少ない。海外はジョブ型雇用が汎用スキルの高評価を支えていますが、日本はそうではない。日本は同業種・同職種でも、職場が変われば文化もやり方も一変するため、企業文化の壁にぶつかります。それを「汎用能力」という教育の問題にすり替えられても、先進国ですら難しいことを教育が実現できるはずがありません。

正規・非正規の壁について。 前職が非正規だった人が転職して正社員になれた割合は、最新統計で8.4%。1年前の7.1%からは増えましたが、このペースでは壁が崩れたとは到底言えません。少なくとも現状で起こっているのは、一体何年かかるのか、気が遠くなるような微々たる変化です。

学歴差について。 初職を離職した若者が1年以内に正社員へ戻れた割合は、大卒が非大卒より約8ポイント高く、約1.4倍。期間を広げるとこの差はむしろ拡大し、調査時点の正社員割合は男性で約20ポイント、女性で約25ポイントの差が出ます。「回復力」にも学歴差が残るのです。だからといって「大学に行けば安心」でもありませんが、「女子だから大学に行かなくても大丈夫」とは、現実を見れば無責任には言えません。

エッセンシャルワークの処遇について。 ホームヘルパー、施設介護員、自動車運転者、保育士――いずれも社会に不可欠な仕事ですが、低賃金と過酷な労働条件が改善されていません。これは世界的課題でもありますが、「課題先進国」を標榜する日本がこれらを評価できていない現実があります。もし生徒が使命感を持ってこうした仕事に就きたいと言ったとき、誰かがやらなければならない仕事だから立派な選択だ、と私たちは言えるのでしょうか?「じゃあ先生はなぜやらないのか」と問われれば、返す言葉がありません。だからこそ、現状を正確に伝えたうえで「自分たちも変えようとしている、一緒に頑張ってほしい」という姿勢が必要だと考えています。

M字カーブについて。 「解消された」とよく言われますが、正しい読み方は「女性の就業率は低下しにくくなったが、その受け皿の一部は非正規就業の拡大である可能性がある」です。結婚・出産を機に正社員ではなくなり、それでも働き続けようとした女性が非正規を選ばざるを得ない。優秀な人材が安く買い叩かれている構造です。女性も、ポスドクも、シニアも、移民も安く使える非正規として、搾取対象として扱っていると批判されても仕方がないのが今の日本社会です(実はこれ、多くの学校でも見られるのが現実です)。

まとめれば、日本社会の上昇移動は起きてはいるが極めて限定的で、移動に学歴は依然として不問ではなく、ジェンダー課題もエッセンシャルワークの処遇も未解決のまま。「自由な移動」はまだ夢物語に近いのが現状です。あわせて、西尾先生の言う「和風科挙」=偏差値序列も、本格的な少子化が始まる前からすでに崩壊しつつあります。それなのに大人は「強い大学はどこか」「年内入試をどう攻略するか」といったポジショントークに終始していないか。18歳のスクリーニングで人材を選別する茶番はやめて、広く緩く選抜し、人を時間をかけて育てる仕組みへ――強い意志を持って、一つひとつ大人が変えていかなければ、何も変わらないのだと思います。

第4章 社会条件によって、前面化すべき教育は変わる

ここで強調したいのは、「現実の日本社会はひどい」「経団連が悪い」と言いたいわけではない、ということです。もちろん、公教育を私物化する組織は糾弾されるべきです。現場教育として実装できないものをビジネスチャンスを考えて利用しようとする勢力も批判されてしかるべきです。しかし、私たち教員や教育関係者は生身の生徒達と向き合わなければならない。現状を冷静に見つめたうえで、この状況で教育はどう設計されるべきか、私たち教員一人ひとりに何ができるかを考えたいのです。明確な答えを持っているわけではなく、皆さんと一緒に考えたいという想いで発表を続けました。

社会を「移動」「学び直し」「ジェンダー」「必要労働」の四つの軸で見たとき、これらの整備度合いによって、学校が前面に出してよい教育内容は変わるはずです。そこで社会を三つのステージに分けました。受け皿が弱い社会(今の日本はここ)/移行期の社会(日本が将来足を踏み入れようとしている段階)/フレキシキュリティに近い社会(デンマークなどが理想モデル)

受け皿が弱い社会で「好きなことをやればいい」「後からいくらでも学び直せる」と言えば、どうなるか。どういう生徒にそれを言うのかによって変わりますが、少なくとも、ここでは慎重にならざるを得ません。だからこの段階で学校が最低限保障すべきは、制度理解と再選択の可能性です。とりわけ私が最も強調したいのは、労働法と契約の基礎を学んでおくこと。経団連は決してこれが必要だとは言わないでしょう。しかし今の日本社会では、残念ながらその発信主体を信頼しきれない以上、せめて武器として最低限の労働法の知識を子どもたちに持たせておく必要があるのではないか。

移行期の社会になって初めて、防御的支援と挑戦的支援を二層でバランスを取りながら設計できます。全員に海外留学・起業・本格的な探究を、と言うのではなく、それができる恵まれた子はやればいい。ただ全体に向けては、失敗してもやり直せる環境がないのに挑戦だけを求めるのは「口だけ」になりかねない。だからこそ、まず守ることを支援として行うべきだと考えます。

最終段階のフレキシキュリティに近い社会になって初めて、移動してもペナルティが少なく、ジェンダー平等も実現し、職を失っても学び直しを条件に次へつないでいける――そうなって初めて、私たちは自信を持って「挑戦しなさい」と言えるのだと思います。北欧ですら越境型のキャリアアップは未完成で、安易に「Society 5.0だからそうなる」と無責任にはとても言えません。

第5章 女子教育に最も鋭く現れる、しかし女子に閉じない問題

最後に女子教育と接続しました。こうした課題は女子教育において最も鋭く現れる一方で、女子教育に閉じてはいけない社会全体の問題だ――これを強調したいと思います。

ある研究会で小熊英二先生は「ジェンダー課題を解決しても世の中の差別構造はなくならない」とおっしゃいました。フランスではジェンダー課題は小さくなっても、階層化の課題は深刻なままです。ジェンダーや女子教育の課題は、入口(教育)と出口(社会)の落差が他のどの属性よりも分かりやすく現れる領域です。だから女子という観点から社会の課題を見ること自体はとても良いことですが、そこで見えている課題は実はジェンダーに閉じた課題ではありません。

レールを一度外れたら戻れないのは男女問わずですし、非正規には行き場のない高卒男性もポスドクの男性もいます。介護を理由に離職した男性教員も本校にいます。これらは突き詰めれば社会保障とケア責任の問題であり、それを「自己責任」と背負わされる人が多く女性であるために、女子の問題として表面化しやすいだけなのです。意思決定の場が毒性の強いリーダーシップになりやすい日本的組織のあり方、そして多くの学校管理職の労働法意識の乏しさにも、根は通じています。性別を問わず、社会の中で安心して成長し続けられる未来を作る必要がある――ここに問いを開きました。

なお、「AIで仕事はなくなる」「ベーシックインカムが来る」といった未来予測は、その多くが無責任なSociety 5.0と同種のもので、テーマとして扱いたい内容ですが、今回は仮説の紹介に留め、今後あらためて研究会などで扱えればと考えています。

質疑応答から――登壇者として受け取ったもの

発表後、多くの先生方・参加者から貴重なご意見をいただきました。

ジェンダー課題の解決は男性にとっても居心地の良さにつながる一方、それを阻むのは「既得権」と「自分がこうだったからあなたもこうしろ」という発想だ、という指摘。育児や家事、料理などは手が掛かるものではあるが、楽しさや喜びを得られるものでもあり、忙しすぎる働き方によって父親がある意味「奪われてきた」ものでもあるのではないか?そうした社会を私たち自身が変えていく必要があるという話にもつながりました。

「実存は社会の受け皿から独立できない」という観点は、日本でマイノリティであるキリスト教徒の信仰のあり方とも重なる、というご紹介もありました。共学校の校長を経験して「女子の問題は日本社会全体の問題であり、社会そのものを変えない限り最終的な変化は起きない」と痛感した、というお話も頂きました。大学の先生方は高校の授業と入試を変えることには熱心でも、その先の社会をどう変えるかは語ってくれなかった、という率直な振り返りもありました。

「転職できるよ」「学び直せるよ」と無責任に言ってきたことを反省した、ただ「変えていくのはあなたたちで、私たちはその責任を果たせていない、変えなきゃいけないと思っている」という反省をきちんと伝えたい、という言葉もありました。地方では入試はすでに選抜ではなく、都市部で理系人材を育てても地方には行かないという地方の大学を通した地域創生に取り組んでいらっしゃる方の視点は、東京目線の狭さに気づかせてくれる貴重なものでした。社会保障と一体化した正規・非正規の問題への現場からの実感も、深く共有されました。

そしてリスキリングを「学校Aから学校Bへの移行」ではなく、社会教育という大きな円に学校教育を包摂し、地域社会に学びのベースを置く発想へ――という提起をいただきました。不登校の子どもたちを「不適応」と見るのではなく、無意識に何かを表現している存在として捉え直す視点、そして文章力を「盾と翼」(自分を守る武器であり、別の場所へ連れて行ってくれる力)として育てるという、教科教育に根ざしたキャリア教育観も印象的でした。

おわりに

私自身、明確な答えを持っているわけではありません。ただ、理念そのものを否定するつもりはありませんが、理念が先行して社会が追いつかない状況を作れば、犠牲になるのはそこへ出ていく今の子どもたちです。だからこそ、社会条件との関係で教育の設計を見直さなければならない――それが今回の問題意識でした。

大人がまず、これまでの仕組みの限界に向き合うこと。「君たちはいくらでも学べる」と言葉で言うより前に、自分が学び変わろうとする姿を見せること。知らないことを「知らない」と言える大人であること。子どもたちは、それを敏感に感じ取っています。性別や属性を問わず、誰もが安心して成長し続けられる社会へ。その実現に向けて、まずは足元の自分の組織から、一人ひとりが社会を変えていきたいと思います。

長く、また厳しい言葉もあったかと思いますが、最後までご清聴いただき、本当にありがとうございました。

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