この夏、話題になっている「学校改革派」と「学校再建派」の対立について、私見を書いておきます。
目次
まず、断っておきます
私は、学校を改革した実績も、学校を再建した実績もありません。もちろん勤務校において、微力ながら自分にできることはやってきたつもりです。ただ、今回話題になっている公立中学校をめぐる改革や再建は、私の勤務校よりもはるかに難しい条件のもとで行われてきたものだと理解しています。
さらに言えば、その公立中学校ですら、都心の比較的恵まれた地域にあります。全国には、もっと厳しい条件のなかで日々子どもたちと向き合っている先生方が大勢いる。そのことも忘れてはいけないと思っています。
私自身、「教育実践」と胸を張って呼べるようなものが自分にあるとは思っていません。自分との関わりによって生徒が成長した、というよりも、私との関わりを「正解」にしてくれた生徒がいた、というだけのことでしょう。少なからずマイナスの影響を受けた生徒もいたはずですし、私との関わりなど、その後の人生にほとんど意味を持たなかった生徒も当然多くいると思います。
出会ってくれたすべての生徒たちによって、今の自分ができている。私は、そんな未熟な教員の一人です。
そのうえで、それでも今回の対立は、僭越ながらかなり不毛だと感じています。そして、この対立のあり方そのものが、今後の日本の教育に大きなマイナスを残すのではないかと危惧しています。
両者は、実はよく似ている
他者の成果を認めない、という話ではありません。ただ、今回対立している両者は、教育観こそ正反対に見えても、いくつかの点でよく似ています。
第一に、どちらも「構造」を変えない。
学級規模、人員配置、入試制度、教員異動、専門職配置——学校現場だけでは変えられない構造をどう改善するのか。その点について、改革派も再建派も、ほとんど語りません。
第二に、どちらも成果を「自分たちの成功物語」として語る。
- 改革によって入学希望者が増えた
- 再建によって秩序が回復した
- ICT教材の導入によって数学の力が伸びた
- 再建によって生徒の安心感が増した
- 改革によって進学実績が伸びた
- 再建によって教員が働きやすくなり、生徒も過ごしやすくなった
もちろん、これらはすべて検証すべき現象です。ただ、それだけで「改革が成功した」「学校を再建した」と言えるのでしょうか。
両者を支持する意見も、あまりに無頓着に表面的な数値をエビデンスとして発信している。あるいは片方のエビデンスだけを攻撃している。
失礼を承知で言いますが、どちらもレベルが低すぎる反応にしか私には見えません。
私が最も問題だと思うのは、こうした成功物語が構造全体の問題を覆い隠し、結果として既存の構造を温存してしまうことです。改革が上手くいったことも、そこに持続可能性がなかったことも、再建が成立したように見えることも、既存の学校制度を所与のものとする限り、その構造の内部で生じた力学に過ぎないのではないか。
「カリスマの改革は持続可能ではなかった」「だから従来型に戻すしかなかった」という話だけでは、本質には届きません。
なぜ持続可能ではなかったのか。そもそも、持続可能であるために必要な学級規模、人員、専門職、制度、予算は整えられていたのか。
改革した校長自身の力量については、直接は知りませんが、魅力のある方なのだと思います。それでも、改革の中で行われた放課後活動や内部の教育の充実が果たして個の力で可能だったのかについては、私は多少懐疑的です。もちろん、再建派校長が「荒廃」と呼ぶものが、すべて過去の負の遺産として呼べるものだったのかについても、同じくらい懐疑的です。
そもそも、そこを問わずに、改革の成否を個人の力量や理念に還元することも、構造条件を理由に現状維持を正当化することも、結局は「構造を変えない」という一点において同じである、というのが私の見解です。
保護者とメディアも、この構図の外にはいない
この問題を考えるとき、保護者とメディアの存在も外せません。
「有名な改革者がいる学校だからよい」 「自由で主体的な学校だからよい」 「秩序が戻ったから安心」 「入学希望者が増えたから成功」 「荒れた写真があるから失敗」
こうした分かりやすい物語は、学校評価の材料になりやすい。学校選択や教育の消費者化が進めば、学校側も「子どもにとって何が教育的に妥当か」だけでなく、「保護者からどう見えるか」を意識せざるを得なくなります。
私は、学校が市民社会から独立した聖域であるべきだと言っているのではありません。むしろ、学校は開かれたコモンズであるべきだと考えています。
ただ、コモンズ、あるいは社会共通資本として学校を考えるのであれば、「自分の子どもにとって得か損か」という消費者的視点だけで教育を評価することは、大きな阻害要因になり得ます。同時に、学校側が「自分たちの考える理想的な教育」を掲げるだけで、それが社会のなかでどのような意義や価値を持つのかには無関心で、それゆえ説明できず、結果として認められもしないのであれば、やはりコモンズとしては成立しません。
消費社会を前提とした学校では、一方で「主体性」「自由」「未来型教育」が商品になり、他方で「安心」「秩序」「規律」が商品になる。しかも多くの場合、学校が存在する地域の事情や規範意識によっても、大きく影響を受けます。
そしてメディアにとっても、「学校の常識を壊した改革者」「荒廃した学校を立て直した再建者」という物語は、非常に扱いやすい。
逆に、
- 学級規模をどうするか
- 教員配置をどうするか
- 入試制度との整合性をどうするか
- 社会で求められる力を、どのような仕組みとリソース配置によって育てるのか
- どの実践が、誰に、どの条件で、どの程度機能したのか
といった話は、どうしても地味です。
その結果、制度より人物、条件よりストーリー、長期的な検証より短期的な成果が前面に出やすくなる。
改革者は物語を提供する。再建派も別の物語を提供する。メディアはそれを増幅する。保護者はそれを学校評価や選択の材料として消費する。
この循環そのものが、教育実践の冷静な検証を難しくしているのではないでしょうか。
そもそも「成果」と呼べるのか
そして、私が最も気になるのは、両者が「成果」として提示するものの浅さ(失礼)です。
再建派が示す写真や個別事例については、「一時点の切り取りではないか」「因果関係を示していない」という印象を持たざるを得ませんし、実際、同様の批判も少なくありません。
一方で、改革派が語ってきた「成果」も、同じ厳しさで検証されてきたとは思えません。
- 入学希望者が増えた
- ICT教材によって数学の成績が伸びた
- 進学実績が伸びた
こうした事実があったとしても、それをそのまま改革の成果として回収してよいとは限りません。
※ ICTによる数学ドリルで成果が出たという改革者の発信に、専門のお立場から「数学という学問の本質を理解した発言ではなく、改革そのものに疑問符が付く」という趣旨の発信を新井紀子先生がされていたと記憶しています。
また、理念やビジョンだけを比較すれば、「自律」「対話」「主体性」といった改革派の価値の方が魅力的に映りやすい。
私自身、年齢や役職を背景に上から教員や生徒を管理し、「現場にしか分からない」として外部からの検証を退けるムラ社会的な学校文化には、強い抵抗があります。というより、小学生の頃からこの「教員ムラ」の文化が嫌で仕方がなかった人間です。半世紀以上、憎み続けて叩き続けてきました(笑)。
だから、再建派の語る成果には、しばしば「演劇性によって維持される学校秩序が回復したことによる、教員側の業務のやりやすさ」が混ざっているように見えます。もちろん、だからといって、そうした教員を全員排除すればよいとは思いません。演劇性も損なわれ、まったく教育活動が成立せず、教員どころか、同じ学級で学ぶ生徒すら恐怖を感じるような「本物の荒廃」を、私は知らないわけではありません。
そして、むしろ、現在の学級規模や人員配置といった条件が、教師に演劇性や統制を要求している面もある。だとすれば、本当に必要な改革とは、演劇性を必要としない構造へ変えることです。本音ではそれを望んでいない再建派の教員も珍しくないでしょう。しかし、その方々にも考えてほしい。自分が生徒なら、本当にそんな教育を受けたいのか、と。これまでのような管理によって演劇性を維持するような教育でよいのか?と。条件を変えれば、そこまでの管理は必要なくなる。座っていなくても目が届く。そういう学校の方がよくないですか?
一方、改革派の教員は「どんな条件でも自分ならできる」となりやすい。そうなのかもしれません。しかし、学校という場は、特定の人間の自己顕示欲を満たすためにあるのではない。これは自戒もこめて言いたいです。
こうした批判を両者に向けるとき、私の経験上、改革派も再建派も、返ってくるリアクションはまたよく似ています(笑)。「子どもたちのため」を考えてやっているんだ、と。
それも嘘ではないと思います。でも、それが本当にそうなのかどうかは、大人の都合や見え方だけで決めていいことではない。
理念が魅力的であること、方針が妥当であることと、その実践が有効であること、正しいことは、別の問題です。
本来必要なのは、
- 何が
- 誰に対して
- どの条件で
- どの程度機能したのか
さらに、
- 誰には機能しなかったのか
- どんな副作用があったのか
- 時間が経っても持続したのか
- 他校でも再現できるのか
そこまで含めた検証です。
短期間の変化や、一部の数値、写真、生徒や保護者の反応を「エビデンス」と呼び、自分の教育観を補強する材料として使うだけなら、それは科学的検証とはかなり違います。少なくとも私には、シチズンサイエンスには見えません。
とりわけ、著名人との人脈、企業や行政とのネットワーク、ICT環境、メディアからの注目など、通常の学校では容易に再現できない条件が含まれているなら、なおさらです。それらを取り除いても、同じ成果が出るのか。
再建派についても同様に、自分たちの行っていることは現在の市民社会において本当に支持を得られることなのか、を問うべきでしょう。
もちろん、「世間」が本音では手放していない「規範」を学校に押し付けながら、二枚舌で「主体性」といった綺麗ごとを向けてくる。そう感じて腹が立つこともあるでしょうし、その本音と建前の板挟みも、現場を苦しめる大きな要因ではあるでしょう。
それでも、酷い条件だからこそ仕方なくやってきたことをスタンダードとしてしまうのは、この国の未来の教育を考えるとき、やってはいけないことだと思います。
生徒が寝ていた。端末が壊れていた。廊下に生徒がいた。
仮にそうした事実があったとしても、それだけで「改革によって学校が荒廃した」ことの証明にはなりません。管理の正当化にもなりません。
どの時点で何が起きたのか。以前との比較はどうなのか。学力、不登校、安心感、自己効力感、学校満足度、生徒自治などはどう変化したのか。そこまで見て初めて、「改善した」「悪化した」と言えるはずです。
保護者や生徒もまた、「自分にとって楽」「自分にとって得」といった軸とは無縁のところで、学校の在り方を問い、考える必要がある。
勉強しない我が子を見て、「宿題を出してくれ」「無理やりにでもやらせてくれ」という要求を学校にすれば、それは当然、管理の正当化になってしまう。「長所を伸ばしてやってくれ」「褒めて伸ばしてくれ」「この子をしっかり見てくれ」ということは望んでもよいことですが、現在の集団のなかに預けている状況にも目を向けて限界も理解してほしいし、急がないでほしい。
上から目線で評論するメディアの人たちも、自分たちの発信の重さを自覚すべきでしょう。もちろん、現場がよくなるように、と向き合う方も少なからずいますが、対立を煽っている人たちの罪は重いと思います。
話を戻します。
本来ならサイエンスとして考えるべき課題が、「カリスマが成果を出したが、持続可能ではなかった」という話に収斂していく。安易に「成果」という言葉を使うこの説明自体が本質を外している可能性があり、しかも有害ではないかと強く危惧しています。
つまり、改革派と再建派は方向こそ逆ですが、自分の立場を補強するために、自分に都合のよい事例や数字を「エビデンス」として提示する点では、よく似ている。そして現在の市民社会の住人やメディアには、この表面的な対立構造しか見えていない。それをエンタメとして消費しているようにすら見える。そんな民度だから、この程度の対立が話題になると言ったら言い過ぎかも知れませんが…。
僭越ではありますが、私にはどうしてもそう見えます。
必要なのは「自分が正しかった」という証明ではない
本来必要なのは、
仮説を立て、実践し、自分に不都合なデータも取り、反証されたら修正し、次の実践へつなげる。
そういう制度と文化ではないでしょうか。
「自分が正しかった」という証明ではなく、「子どもたちにとって何がより望ましいのか」という問いを更新し続けること。
だから、この対立から最も見えてくる問題は、「どちらが正しいのか」ではないと思っています。
- 子どもたちにとって何が望ましい教育なのか
- その仮説は検証に耐え得るのか
- 反証されたとき、教育観そのものを修正できるのか
そうした問いを共有し、実践を記録し、批評し、更新し続ける制度、リソース、文化が学校にあるのか。そして同時に、学級規模、人員配置、入試制度、専門職配置など、一つの学校や一人の校長の力量では解決できない構造そのものを、社会として変えていけるのか。
さらに言えば、市民が教育の意義を重視し、そこにお金も人も使うことについて、社会的な合意を作れるのか。
もし、AIを使いながらミドルクラスの納税者をできるだけ安上がりに育成できればよい、という社会なのであれば、所与の条件のなかで最も効率よく生徒を管理する教育か、あるいは限られた条件のもとでのみ実現可能な教育をブランドとして見せる「商品としての教育」しか生まれにくいでしょう。
必要なのは、カリスマをつくることでも、現場を聖域化することでもありません。
「誰がすごいか」でもなく、「現場を信じろ」でもない。
何が、誰に対して、どの条件で、なぜ機能したのか。
それを検証可能な形で語り、失敗も含めて組織の知識として蓄積する教育制度と文化が必要なのだと思います。もちろん現在の学校には、そのためのリソースも制度も文化も圧倒的に不足しています。
では、何を土台にすべきか——三つの事実
批判だけで終えるのは無責任なので、私なりの解決の方向性を書いておきます。
出発点は、誰かの成功物語ではなく、国際比較可能な事実です。ここには、改革派も再建派も、ほとんど言及してきませんでした。
事実1:日本の学級規模は、OECDで最大である
OECD『図表でみる教育2025』(2023年データ)によれば、日本の初等教育の平均学級規模は26.7人。OECD平均は20.6人で、この数字は2013年以降変わっていません。
前期中等教育(中学校)はさらに大きい。日本の公立中学校の平均学級規模は32人で、データのある35か国中1位です。OECD平均は23人。
小学校で約3割、中学校では約4割多い。これは「教師の力量」でも「学校文化」でもなく、単なる条件の差です。
(なお、文部科学省の学校基本調査では中学校の1学級平均は26人台という数字も出ますが、これは算出の対象範囲がOECD統計と異なるためです。国際比較には、各国共通の定義で集計されたOECDの数値を用いる必要があります。この点を混同した反論を受けやすいので、あらかじめ断っておきます。)
事実2:授業時間は国際平均より短いのに、勤務時間は参加国中で最長である
ここも重要な事実だと考えています。
TALIS2024(OECD国際教員指導環境調査、2025年10月公表)によれば、日本の教員の週あたり仕事時間は中学校55.1時間、小学校52.1時間。中学校のOECD平均は41.0時間、小学校の参加国平均は40.4時間です。前回2018年調査から約4時間減りましたが、それでも参加国中で最長でした。
日本の中学校教員は、TALISに参加した2013年、2018年、2024年のいずれの回でも、参加国・地域中で仕事時間が最長です。
ところが、その内訳を見ると話が反転します。
| 週あたり時間(中学校) | 日本 | OECD平均 |
|---|---|---|
| 仕事時間の合計 | 55.1h | 41.0h |
| うち授業 | 17.8h | 22.7h |
| 授業準備等 | 8.2h | 7.4h |
| 事務業務 | 5.2h | 3.0h |
| 課外活動 | 5.6h | 1.7h |
出典:国立教育政策研究所「TALIS2024報告書のポイント」
日本の中学校教員は、OECD平均より週に約5時間少なく授業をして、週に14時間多く働いている。
この一行が、日本の学校の構造を最もよく表していると思います。「教員が忙しい」のではありません。「授業以外のものが、教員の時間を占拠している」のです。
そして少なくともこれは、個々の教員の選択だけで説明できる問題ではありません。
校長調査でも同じ像が出ます。「支援職員の不足」が質の高い指導の妨げになっていると校長が回答した学校に勤務する教員の割合は、小学校66.3%(参加国平均40.9%)、中学校47.1%(OECD平均30.7%)。いずれも国際平均の1.5倍以上です。
同じ指標で「教員の不足」を見ると、小学校40.7%(2018年は19.2%)、中学校35.6%(同27.5%)。小学校では6年で倍以上に増えています。
事実3:授業時数は国際平均以下なのに、教員の勤務時間は最長である
日本の児童生徒が受ける必修授業時数は、初等教育で年768時間、前期中等教育で年884時間。OECD平均(804時間、909時間)を下回っています。
授業時数はOECD平均以下。教員の勤務時間はTALIS参加国中最長。
つまり日本では、教員の勤務時間と授業時間のあいだに大きな乖離がある。部活動、事務業務、生徒指導、学校運営といった授業以外の仕事が教員の時間を大きく占めていることは、TALISの内訳から確認できます。それ自体を全否定するつもりはありませんが、少なくとも「授業を中心に時間が配分されている」構造にはなっていない。
なお、日本の初等教育から高等教育までの教育機関への投資は対GDP比3.9%で、OECD平均の4.7%を下回ります。ただしこれを「日本は公教育に金を出していない」と読むのは正確ではありません。初等中等教育段階に限れば公的財源の割合は92.7%(OECD平均90.4%)と高く、GDP比の低さには高等教育段階での私費負担の大きさが効いています。問題は総額と、その配分先です。
ついでに、一つ確認しておきたい事実
TALIS2024には、今回の対立に直接関わるデータもあります。
学級の規律について、「とても騒々しく、秩序が乱れている」と答えた教員は、中学校4.3%、小学校6.3%。国際平均は21.2%、23.4%です。しかも2018年調査(中12.4%、小16.5%)から3分の1程度に減っています。
「児童生徒が授業を妨害するため、多くの時間が失われる」も、中学校2.5%(前回8.1%、国際平均17.7%)、小学校5.2%(前回10.9%、同19.3%)。
TALISの教員回答を見る限り、日本の学級規律は国際平均よりかなり良好で、2018年からも大きく改善しています。
写真一枚で「荒廃」を語ることの危うさは、この数字が示していると思います。同時に、「秩序を回復した」という物語が、そもそもどれほどの改善余地の上に立っているのかも、問われるべきでしょう。
ただし、ここは自分にも厳しく適用しなければなりません。全国平均のデータから、特定の一校が荒れていなかったと証明することもできません。 TALISは教員の自己報告による標本調査であり、回答傾向の文化差にも留意が必要です。特定の学校について語るのであれば、必要なのは全国平均ではなく、その学校自身の時系列データです。
これは私が改革派・再建派の双方に向けた要求と、同じ要求です。
予算を、どこに投じるのか
以上を踏まえると、投じるべき先は明確だと思います。
第一に、学級規模。 2026年3月31日に義務標準法が改正・成立し、4月1日に施行されました。中学校の学級編制標準が約40年ぶりに40人から35人へ引き下げられ、今年度の中学1年生から始まっています。2027年度に2年生、2028年度に3年生へと広がる予定です(小学校は2021年の法改正により、2025年度に全学年で35人学級が実現しています)。
前進です。ただし、ここは指標をそろえて言う必要があります。35人というのは学級編制の標準(上限)であり、OECDの23人は実際の平均学級規模です。同じものを比べているわけではありません。
そのうえで言えるのは、35人という上限は、それ自体が国際的に小規模な水準を意味するわけではない、ということです。日本の実際の平均は32人、OECD平均は23人。40人から35人への引き下げは意味のある一歩ですが、一歩です。財務省や一部政治家が語る「コスパ」は「学級規模」と「ペーパーテストの成果」に過ぎませんが、本当に主体性や一人一人の成長に寄り添う環境を創るのであれば、その論拠そのものを市民が否定しなければならないと考えます。
第二に、支援職員。 日本の学校は教員比率が高く、支援スタッフが薄い。事務職員、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、教員業務支援員、部活動指導員。TALIS2024で小学校長の6割超、中学校長の5割近くが「支援職員の不足」を挙げているのは、この構造の直接の表れです。授業以外の業務を、教員から剥がす。学校内部の人間を多様化することも、「教員ムラ」を解体していくには必要だと思います。
第三に、部活動の地域展開。 中学校の課外活動が週5.6時間(OECD平均1.7時間)という数字は、他国では必ずしも学校の仕事とされていないものを、日本の教員が引き受けていることを意味します。これは現在進んでいますが、過疎地などでは本当に難しい課題ではあると思います。でも、だからと言って、戦後何十年も現場の教員の好意に甘えてきた部活動の仕組みをこれ以上維持することはあってはならないです。「子ども達の活動の機会が」ということを理由に継続を望む声があるのは分かりますが、そういう「善意からの声」こそが、現場を苦しめ続けてきたことを忘れてはならないと思います。
第四に、処遇。 2025年6月11日に成立した改正給特法により、教職調整額は2026年1月から毎年1%ずつ段階的に引き上げられ、2031年1月(令和12年度中)に10%となります。一気に10%になるわけではありません。それでも、1972年の給特法施行以来、初めての増額です。
ただし、はっきり言っておきたい。処遇改善は、時間の総量を減らしません。 手当は必要ですが、それは条件整備の代替にはならない。
そして、これらはすべて予算の問題です。つまり、政治と、有権者の合意の問題です。一人の校長の力量の問題ではない。
改革派の校長にも、再建派の校長にも、学級規模を変える権限はありません。ここを社会の課題として引き受けない限り、私たちは今後も、個人の物語を消費し続けることになります。
それでも、明日の教室はある——「任せられるか」の判断基準
とはいえ、条件が整うのを待っていては、目の前の生徒に対応できません。
そこで、現在の学術的知見に照らして、「管理を弱めて生徒に任せてよいか」を判断するための、暫定的なガイドラインを示しておきたいと思います。
私は学者ではないので、あくまでたたき台です。
その前に、前提を一つ。
「管理か、主体性か」という対立軸そのものが、研究上は成立しません。
自己決定理論でいう「自律支援(autonomy support)」と「構造(structure)」は、同じ軸の両端ではありません。自律支援の対極は統制的な関わりであり、構造の対極は構造の欠如です。別々の軸なのです。
Jang, Reeve & Deci(2010)では、教師の自律支援と構造は正に関連し、いずれも生徒の行動的な学習関与と正の関連を示しました(自己報告による関与を独自に予測したのは、自律支援の方でした)。ここでいう構造とは、明確な指示、学習過程での助言、建設的なフィードバックのことです。
つまり、生徒に選択や自己決定の余地を与えることと、目標・手順・フィードバックを明確にすることは、両立します。
構造を撤去することは、自律支援ではない。
この前提の上で、判断基準を七つ。
① 構造は残っているか
問い: 目標、手順の選択肢、期限、フィードバックの機会は明示されているか。
判断: 「自由にやっていい」としか言えないなら、それは委譲ではなく放棄です。任せるのは手順の選択であって、目標とフィードバックではない。
② その領域で、生徒はどの習熟段階にいるか
問い: その課題に必要な前提知識と手続きを、生徒はすでに持っているか。
根拠: 初学者に最小限の手引きしか与えない指導が非効率になりやすいこと、逆に熟達が進むと詳細な手引きがかえって妨げになり得ること(熟達度の逆転効果)は、認知負荷研究で繰り返し報告されてきた知見です。
判断: 少なくとも、学習者がどこまで自走できるかは、領域とその時点の前提知識に強く依存します。「この生徒は主体的だ」と一般化するより、「この生徒は、この内容のこの段階で自走できるか」と問う方が実際に役立つ。同じ生徒が、数学では任せられ、英語では任せられないのは、まったく正常なことです。
③ 自己調整の仕方を、教えたか
問い: 計画の立て方、進捗の測り方、つまずいた時の助けの求め方を、明示的に指導したか。
根拠: 自己調整能力は、観察・模倣・自己制御・自己調整という段階を経て、指導やモデリングを通して発達させることのできる能力です(Schunk & Zimmermanの社会認知モデル)。
判断: 教えずに任せるのは、委譲ではなく放置です。
④ 大人の目の密度は足りているか
問い: 一人ひとりの進捗を、週単位で誰かが把握できる人員配置か。
判断: ここで前半の構造の話が効いてきます。管理を弱めることは、教員の仕事が軽くなることを意味しません。 むしろ、一律の統制よりも、個別の状況把握という高負荷の仕事に置き換わる。32人学級・週55時間という条件下では、「任せた結果どうなったか」を把握する余力そのものが存在しない。
条件が足りないなら、答えは「だから管理を続ける」ではありません。「その条件をどう作るか」です。しかしそれまでの間、把握できない規模での全面的な委譲は、生徒に対して誠実ではない。
⑤ 落ちた生徒を拾う仕組みがあるか
問い: 委譲の効果を、上位層と下位層に分けて見ているか。
判断: 構造を弱めたときの効果が、家庭背景や学力層によって異ならないかを確認する必要があります。ここは私の推測を述べる場ではなく、測るべき対象です。全体平均が改善しても、下位層や支援を必要とする生徒が沈んでいれば、それは格差の拡大にほかなりません。
平均値だけを見て「成果が出た」と言うことの危うさは、改革派に対する最も重い問いだと考えています。
⑥ 可逆性を設計してあるか
問い: 「うまくいかなかった場合にどうするか」を、始める前に決めてあるか。
判断: 撤退条件を決めずに始めた改革は、失敗を認められなくなります。旗を降ろせないから、成功物語を語り続けることになる。可逆性のない改革は、改革者を防衛的にします。
⑦ 不都合なデータを取る設計になっているか
問い: 何を、いつ測るかを、始める前に決めてあるか。
判断: 事後に良かった数字を探すのは検証ではありません。学力、不登校、欠席、保健室利用、自己効力感、学校満足度、そしてやめていった生徒。これらを事前に決めて取る。
そして、この七つは、改革にも再建にも同じように適用されるべきものです。「秩序を回復した」という主張も、①〜⑦の検証を免れません。
この基準の使い方
七つすべてが揃うことは稀でしょう。だから、これは可否を判定する表ではなく、どこから整えるかを決めるための地図として使うべきものだと考えています。
①〜③が欠けているなら、それは教員が今日から変えられます。もちろん、その余力が教員になければ無理ですし、方法論についての知見をUpdateしていく研修の余裕も必要です。
④が欠けているなら、それは学校や自治体、そして国が変えるべきものです。
⑤〜⑦が欠けているなら、それは学校の文化の問題です。
そして、④を理由に①〜③を放棄することも、①〜③ができているからといって④を問わないことも、どちらも誠実ではない。
改革派は④を軽視しがちで、再建派は①〜③を諦めがち、あるいはその余力やそこへ向かう気力が消耗している、というのが私の見立てです。
荒廃しているのは、学校か、社会か
改革と反動の振り子を何度揺らしても、構造が変わらず、検証の文化も育たないのであれば、そのたびに新しい「改革者」と「再建者」が現れ、メディアが物語をつくり、保護者が次の「分かりやすい正解」を選ぶだけです。
その循環そのものを止めることの方が、はるかに重要ではないでしょうか。
そして恐らく、その前に、こうした対立そのものを不毛だと感じる若い人たちは、そもそも教員にならなくなるでしょう。
現在の私たちが作っている社会のあり方が、この悪循環を深刻化させ、そこで生まれる分断がさらにそれを加速させる。その結果として、社会も更に悪化していく。
これは「教育が社会を荒廃させる」という単純な話ではありません。むしろ、社会の荒廃のなかで、安上がりにと軽視された教育も荒廃していく、という問題なのだと思います。
安上がりでもできることはあるんだ、といった改革者の発信は、それゆえ、本人は無自覚でしょうが、罪が重いと言えるでしょう。
安上がりだからということを免罪符にやりやすいやり方の是非を問わない再建派も同様に罪が重いと言えるでしょう。
本当の「荒廃」とは、生徒が授業中に寝ている、といったレベルの話ではなく、安心して住めなくなるこれからの日本社会として私たちの前に姿を現してくるものだと強く危機感を持ちます。
とはいえ、他国の教育や社会のあり方を学べば、日本だけが取り立てて悪いわけでもありません。どの国も課題を抱えています。課題があること自体が問題なのではない。その課題への向き合い方を間違えれば、状況は悪化する。
そういう意味で、非常に僭越ではありますが、今回の対立を単なる価値観の対立として消費するのではなく、なぜこの対立が生まれたのか、その背景にある構造を考える必要があると思います。
そして一人ひとりが、自分の好みや価値観に合う側に「正義」を与えるのではなく、この対立そのものを、社会として乗り越えるべき課題として捉えること。
それこそが今、必要なのではないでしょうか。
出典
本稿で用いた数値の出典は以下の通りです。批判・検証を歓迎します。
学級規模・授業時数・教育支出
- OECD (2025)『図表でみる教育2025(Education at a Glance 2025)』カントリーノート:日本
- 初等教育の平均学級規模:日本26.7人/OECD平均20.6人(2023年)
- 必修授業時数:初等768時間、前期中等884時間/OECD平均804時間、909時間
- OECD Education GPS(EAG2025指標)
- 前期中等教育(公立)の平均学級規模:日本32人、35か国中1位(2023年)/OECD平均23人
- 教育機関への投資(初等〜高等教育)対GDP比:日本3.9%/OECD平均4.7%。初等中等教育段階の公的財源割合:日本92.7%/OECD平均90.4%
教員の勤務実態
- 国立教育政策研究所「OECD国際教員指導環境調査(TALIS)2024報告書のポイント」(2025年10月7日公表)
- 週あたり仕事時間(常勤):中学校55.1時間(前回59.1時間)/OECD平均41.0時間、小学校52.1時間(前回56.1時間)/参加国平均40.4時間
- 中学校の内訳:授業17.8時間(OECD平均22.7時間)、授業準備等8.2時間(同7.4時間)、事務業務5.2時間(同3.0時間)、課外活動5.6時間(同1.7時間)
- 小学校の授業:23.2時間(参加国平均24.9時間)
- 支援職員の不足(校長調査):小学校66.3%(同40.9%)、中学校47.1%(同30.7%)
- 教員の不足(校長調査):小学校40.7%(前回19.2%)、中学校35.6%(前回27.5%)
- 学級規律「とても騒々しく、秩序が乱れている」:中学校4.3%(前回12.4%、OECD平均21.2%)、小学校6.3%(前回16.5%、参加国平均23.4%)
- 同「授業妨害で多くの時間が失われる」:中学校2.5%(前回8.1%、同17.7%)、小学校5.2%(前回10.9%、同19.3%)
- 調査時期は2024年2月〜3月。中学校201校・教員3,558名、小学校202校・教員3,356名。中学校の比較対象はOECD平均(27か国・地域)、小学校は参加国平均(12か国・地域)です。初等教育は参加国が少なくOECD平均が示されていないため、両者を単純に「OECD平均」とまとめることはできません。前回2018年の数値は常勤教員ベースで再集計されているため、2019年公表時の数値とは一致しません。
制度
- 公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律の一部を改正する法律(2026年3月31日成立、4月1日施行):中学校の学級編制標準を40人から35人へ。2026年度の1年生から3年かけて全学年に。約1万7,000人の教職員定数改善を計画。
- 改正給特法(2025年6月11日成立、6月18日公布):教職調整額を2026年1月から毎年1%ずつ引き上げ、2031年1月に10%。給特法施行(1972年)以来初の増額。
「委譲の条件」の学術的根拠
- Jang, H., Reeve, J., & Deci, E. L. (2010). Engaging students in learning activities: It is not autonomy support or structure, but autonomy support and structure. Journal of Educational Psychology, 102(3), 588–600.(自律支援と構造は正に関連し、いずれも生徒の行動的関与を予測した。自己報告による関与を独自に予測したのは自律支援)
- Kirschner, P. A., Sweller, J., & Clark, R. E. (2006). Why minimal guidance during instruction does not work. Educational Psychologist, 41(2), 75–86.
- Kalyuga, S., Ayres, P., Chandler, P., & Sweller, J. (2003). The expertise reversal effect. Educational Psychologist, 38(1), 23–31.
- Schunk, D. H., & Zimmerman, B. J. 自己調整学習の社会認知モデル(観察→模倣→自己制御→自己調整)
注記:TALISは質問紙調査であり、回答は社会的・文化的文脈の影響を受けます。国際比較には留意が必要です。また学級規模の数値は各国の集計定義に依存します。本稿の主張は、これらの限界を踏まえたうえでのものです。


