昨日の女子教育研究会FENの学習会で、「教育は、どんな社会を前提に語られているのか」というテーマで発表させていただきました。内容については本ブログでも発信させて頂きましたし、私の発表動画も一部には公開させて頂きました。手応えのあるご意見をたくさんいただき、本当に私は人とのご縁に恵まれていることを実感したありがたい時間でした。
ただ、発表が終わってからの方が、私にとってはむしろ学びが多いように思います。発表内容について、ある方から指摘をいただき、自分でも改めて動画を見直してみて、色々と考えることが増えました。
今日は「発表後の気づき」について、書いておきたいと思います。昨日の発表のときにも、私自身が「知らないことを知らないと言える大人でありたい」というような話をした手前、それを実地でやってみる、ということでもあります。
まず、私のこれまでの発信も含めて言えることなのですが、私の視野が狭いということが何より課題だと感じています。私自身は地方出身者でもあり、東京に比べるとそれなりに多様な景色を見てきたつもりだし、そこで与えて貰えた素晴らしい体験も生きづらさを感じるほどの共同体の息苦しさについても知っているつもりでした。ただ、改めて昨日の自分の発信を見直してみると、
・東京都の女子中高に勤める教員の目線で課題認知していること
・大学入試を前提としたキャリアを中心に見ていること
を改めて感じました。この点については、昨日の参加者のお1人からもご指摘があったのですが、女子教育の問題を含めて、「教育と社会」というテーマに関してはもっと広い視野で課題を認知する必要があると感じています。これまでの研究会においても、私たちは大学受験層の平均的な生徒からやや上位に当たる層を想定した課題認識しかできていないことを感じてきました。大学進学率が7割を超える東京(更に女子の進学率の方が男子よりも高いという日本では特殊な環境)と男子の進学率が5割に満たず、かつ女子の大学進学率は4割に満たない県では見える課題は違うはずです。また、私立大学の凋落についても、首都圏と地方ではその性質が全く違います。首都圏のブランド私大の質の低下については発表内でも述べましたが、既に地方の私立大学では入学選抜などという実態は存在していないことを昨日の発表直後にもご指摘を受けました。
女子教育の課題を考える場合にも、「社会と教育」の関係を考える場合にも、構造の問題を考え課題を指摘するのであれば、全体像を把握しておく必要があります。
私が行ったCSTI、経団連、経産省、文科省のそれぞれの発信への批判も、それらが発信する教育が一部のエリートを対象にした狭いものに偏っているのではないか、という点を指摘しています。プログラミングにしても英語教育の在り方についても、小学生の義務教育の段階から負荷として課した場合に、果たしてどれだけの層がその負荷に費やした努力や犠牲にした時間を回収できるのかという批判です。それは首都圏の大学受験層の中間層からやや上位層としか普段触れていない私が見ても感じる強烈な違和感と危機感であるわけですが、それ以上に地方の大学進学をしない半分以上の層でははるかに大きな課題であると思います。ただ、この問題を考え指摘する私でも、イメージできているのは40年以上前の自分の小学校~中学校時代の景色であり、現在の風景を私が知っている訳ではありません。批判した対象に決定的に欠落していると指摘した課題を私自身が持っていることは明らかで、その点については自らの学びの狭さを恥じるしかありません。
もちろん、「今ここ」でしか人が生きられない以上、生きている場でそれぞれが課題に取り組み少しでもよくしていくしかありませんが、女子教育や教育の課題を社会との接続で問題にしていく時に、私の視野が狭かったことは大きな課題であり、今後の研究会での活動ではUpdateしていかなければならないと強く感じました。
次に、課題認識における解像度の低さと課題を多面的に認識できていなかった点が大きな反省点です。具体的に言うと
・正規・非正規という二分法は分類としては成立するものの、正規の中にも実態は非正規と変わらない労働実態であるものも少なくないこと
・教員の正規・非正規の課題に限定しても、実は問題はより複雑であること
1つ目については、そもそも大企業型以外での労働条件は中小企業や自営業で苦しくなっている中で、中小企業では正規でも労働条件は悪化し、自営業が都市部の非正規に吸収されるといった複雑な動きの中で、より丁寧に課題を認知する必要があったと思います。労働市場での移動を正規・非正規だけで見てしまえば、課題認識の解像度が低下することを、自分で動画を見返してみて感じました。
2つ目ですが、教員の正規・非正規問題については私自身が取り組んだ経験を持つ分、それなりの解像度を持って課題認識していたつもりです。出席者の首都圏の私学の教員経験者からも定年後の給料が急落する課題を実体験として現在のリアルとしてご報告いただきました。同様の問題は多くの学校で見られます。しかし、この教員の正規・非正規という課題も、実態はより複雑で深刻です。
・公立学校については、財政の弱い地方ほど非正規教員に依存する。これは教育という公共サービスまでが非正規化していく構造。更に近年では教員志望者減という背景から都市部でも少しずつ深刻化していく。
・私立学校については、経営力の観点から、やはり地方の私立の方が厳しい状況にあり、非正規教員の課題は更に深刻であると言える。しかし、都市部では奇妙なことに、経営力の高い私立学校で非正規率が高い事例も見られ、「搾取・人材不足・財源(財政)不足」など課題の質はそれぞれのケースで多様である。
そして、昨日の発表の「解像度が低かった」という課題について、労働市場をご専門にされている先生から貴重なご指摘を本日頂きました。本当にありがたいご指摘で頭の中で分かっているつもりで発信していたのですが、自分の理解が浅かったことを改めて反省させられました。
具体的にお話をします。私は発表のなかで、日本社会、とりわけ「労働市場」について以下の点を日本における「社会と教育の不整合」の現実として取り上げました。
・欧米に比べて上昇移動が実現していないこと
・4つの政策提言(CSTI・経団連・経産省・文科省)やその土台となるSociety5.0で実現すると言われている「越境型(異職種×異業種)移動の日常化」は今の日本では4割程度と他国より多いものの上昇移動(賃金や待遇のUP)という労働者の利益となっていないこと
・そもそも日本よりも上昇移動が実現している欧米ではジョブ型を土台にした移動であり、「越境型」が実現しているものではないこと
この批判そのものは間違っていないと思います。ただ、その課題を取り上げた際に、メンバーシップ型の日本型雇用を「一度レールから外れたら戻れないシステム」として批判し、上昇移動を可能にしている海外型雇用であるジョブ型なら、分野を越えて通用する汎用的なスキルが正当に評価されるという前提を置いて発信してしまいました。私自身は「ジョブ型」全肯定ではないつもりだったのですが、「海外はジョブ型だから越境が報われる、日本はそうではないから報われない」というレベルの偏った発信になっています。指摘されるまで全く気が付かなかったのですが、それはそもそも「理解していた」「ジョブ型万歳」ではないと思っていた自分の理解が浅かったからだと思います。本当に貴重なご指摘で、いつも私は大切なところで人とのご縁に恵まれているのだということを改めて痛感しました。
「ジョブ型」「メンバーシップ型」という概念の生みの親である濱口桂一郎氏の整理によれば、本物のジョブ型とは「その職務でしか企業とつながらない」雇用のことです。だから職務が消えれば整理解雇、その仕事ができなければ解雇。汎用スキルがあちこちで活きるどころか、むしろ同一職務に固定されやすい働き方です。濱口氏はもっと踏み込んで、「社会システムをジョブ型にするのは、実は大部分の人がノンエリートのまま上がっていかない社会にすることだ」と指摘しています。日本のメンバーシップ型の方が、人事異動を通じて年齢とともにキャリアが上がっていく面すらある、と。
そして、大きな課題として、日本の労働者が、高度経済成長期に大きな勘違いというか幻想を持ってしまったのではないかということが挙げられます。家族との時間、自分の趣味など、個人のWell-beingを犠牲にしてでも、社会復興・経済成長のためにはそれが必要であり、そして努力によっていくらでもキャリアを上げていくことができる。その過程で、個人のQOLは度外視され、育児も家事も女性に押し付けられた。しかし、小熊英二先生がご指摘になっているように、「大企業型」の占有率は長期間に渡って変化していない訳ですし、たまたま人口増加をエンジンにした経済成長が好景気をもたらし、それによって中小企業や自営業でも努力によって回収される成果がそれなりにあったことが、「日本型雇用」の成功物語として神話化してしまった。しかし、経済停滞している今の日本において、「労働者側の犠牲」だけにフォーカスし、「だから高い給与も仕事外の時間も保障しろ」と言ったところで、それを実現できるのは極一部に過ぎない。「過去の犠牲と引き換えの高報酬」と「犠牲を最小化した適正報酬」はトレードオフであり、どちらも実現することはできないという事実に向き合う覚悟がなければ、「ジョブ型社会」への移行は成立しない。そして、恐らく、このパラダイムシフトは日本では、高い確率で「労使の合意形成」の中では実現しない。労働者側も経営者側もどちらも今手にしているものを手放すことはしないだろうから。
少し話を戻します。昨日の発表において、私は、「ジョブ型=汎用スキルが報われる良い仕組み」という、世間に流通している雑で楽観的なないものねだりのイメージを、無意識に前提にして発表してしまっていたと言えます。Society 5.0の解像度の低さを批判していた自分が、足元で同じことをやっていたと言われても仕方ないですね。これは率直に認めるしかありません。
指摘してくださった先生には、感謝しかありません。間違った道具で組み立てた議論は、どこかで必ず崩れるものです。早い段階で修正のキッカケを頂けたのは本当にありがたいです。
結論はどうなる?
この点については、自分でも少し意外ですが、直す必要がなぜかないように感じています(笑)。機序の理解を整理した上で上書きしてみると、私の発表の結論――「社会の受け皿が整っていないのに、新しい教育や流動化を前提に子どもを送り出すのは危うい」――は、揺らぐどころか、むしろ強くなるのだと思います。
なぜなら、越境が報われないことが「機序のレベルで」確定しているのが現在の状況であるのなら、受け皿の弱い社会で子どもに「越境せよ」「学び直せ」と煽ることの危うさは、いっそう深刻になるからです。リスキリングについても、日本の学び直しの実施率はOECD平均の11%に対して2.4%と桁違いに低く、企業の能力開発費はGDP比0.1%。多くの企業ではリスキリングしても昇給につながらず、結局は個人の自己負担と自己責任に押し付けられているのが現状だと思います。ただ、それでも小さな変化は起こっているということを、コアメンバーの方から実例紹介という形でご教示頂けています。小さな変化でもそれを起こそうとしている人たちのことを考えると、「変われない酷い状態」ということを強く言いすぎることも罪深い発信になります。ジェンダー課題についても、それを指摘して頂いたことがありますので、私たちは気を付けるべきであと思います。しかし、それでも現状では、それは例外的事例であり、私が発表で「学び直しの社会保障がなければ自己責任になる」と言ったことは、データの裏付けがある話だったと思います。
ご指摘を受けて、おかしな言い方ですが、私の道具は壊れましたが、私の家は壊れなかったようにも思います。むしろ柱を一本、丈夫なものに替えてくれるキッカケを頂けたと受け止めています。誤りを認めることと、主張を取り下げることは、別のことなのだと、やってみて実感しました。また、昨日の今日という話での修正ですので、根本理解を土台からやり直すために、私自身の学び直しが必要であると強く感じています。
つまり、現段階では「絵にかいた餅」ですらない「越境型移動が日常化する社会」を前提に、子ども達の教育を一律にそこに転換することは危険であるということです。もちろん、より厳しくなる経済状況の中で、これまでの大企業型のような報酬を望むのであれば、そういう子ども達には厳しい現実に備えた挑戦的教育がより一層必要になっていくでしょう。しかし、それは「唯一解」として子ども達に示されるべきものではない。仕事と自分の生活のバランスによりWell-beingを向上させる生き方の中にも「学び」の意義はあります。私たち教員が子ども達とともに考えるべきことは、現在の社会と教育の不整合だけではなく、多様な生き方や価値観があるということと、それが社会の中で保障されているのかという観点で社会を見て変えていくことも含まれなければならないと感じました。そして、今後、従来のより狭くなっていく従来型成功を目指しても途中で方向転換する若者たちの未来のことも視野に入れたキャリア支援が必要になることも新たな気づきとして得ることができました。発表前もそれなりに勉強したつもりでしたが、Outputの後の方が学びがドンドン膨らんでいく予感は本当にワクワクする気持ちのよいものです。
反省として残ったこと
こうして点検してみて、自分の発表について残った反省は、二つに集約されます。
一つは、道具立てが粗かったということです。「ジョブ型」「正規という受け皿」「社会の受け皿」――どれも、もう一段、専門的に詰められたはずです。問題意識の方向は間違っていなかったと思います。けれど、その方向を支える概念が、世間に流通しているイメージのままだった箇所が少なからずありました。理念の精度を社会の現実で測れと人に言うのなら、自分の使う概念の精度も、同じ厳しさで測られなければなりません。
もう一つは、これは反省というより、確認できたことです。私の発表に対する指摘は、視野の狭さについても、概念の粗さについても、労働市場の機序についても、不思議と一点に集まっていました。「結論が間違っている」ということではないのだと思います。みな「結論は正しい、けれど道具が粗い。それでは課題は解決しない。」と言ってくださったのだと思います。土台が共有されているからこそ、議論は道具の精度と現実的な解決の話に進む。これは、発表者として、むしろ恵まれた位置にいるということなのだと思います。
大人が誤りを認めるということ
最後に、いちばん書いておきたかったことを書きます。
発表のとき、私は「大人は子どもに偉そうにできる存在ではない」「自分たちも変わろうとしている、その姿を見せなければいけない」というようなことを話しました。参加者の中にも、リスキリングや転職について「無責任に言ってきたかもしれない」と率直に反省を語ってくださった方が複数名いらっしゃいました。「僕は分からないから教えて」と言える素晴らしい先輩教員の姿勢の話も出ました。
今回、自分が公開した発表に明確な誤りがあったと認めるのは、私としては本当に貴重な経験を頂けたと思っています。ポパーの反証可能性への開示…。誤りを「なかったこと」にして、あるいは小さな修正でごまかして、次の発表に進むことは何よりも「誠実」とは言えない行為です。
「知らないことを知らないと言える大人でありたい」というのが私の信条です。そもそも、自分の誤りは認めない大人など、子どもたちはすぐに見抜きます。子どもは、大人の言葉ではなく、大人の振る舞いを見ているからです。だから、今の私は関わってきた生徒達にたくさんの宝物を貰えたからこそあるのだと感謝しています。それを少しでも今の子ども達に、今の社会に返したい。
専門家の方や参加者の皆様からの指摘に、改めて感謝したいと思います。そして、こういう点検にいつまでも付き合ってくれる仲間がいることを、ありがたく思います。次の発表は、もう少しだけ丈夫な道具で組み立てたいと思います。
※本稿で触れた専門的な整理は、濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)ほか、労働市場の潜在クラス分析や日本社会の類型論に関する諸研究に学んだものです。理解の誤りがあれば、それはすべて私の責任です。
追記)
誠実・勤勉・友愛の話で私が15歳の時に亡くした父の話をしました(ブログでも書きました)。ビジネスの本質を背中で語ってくれたのだと今でも思っています。しかし、今の世の中で果たして父のやり方が通用したのかどうか?という話を、「誠実・勤勉」が報われない実例としてご紹介しました。発表後に改めて考えたのですが、巨大な内需を武器にした経済成長期においては、父のビジネスへの向き合い方は正解だったのだと思います。ただ、「見えないところまで手を抜かない」という美徳が行き過ぎれば、最終的な完成度を数%高めるために貴重な時間と労力を犠牲にすることで、失わざるを得ないものがあることにも目を向けるのが今の時代に必要なことだと思います。「誠実・勤勉・友愛」が呪いの言葉に変わってしまうのは、劣悪な外部環境だけの問題ではなく、それを過度に意識しすぎるあまりバランス感覚を失ってしまう個人の問題、いや、そうではなく、それを個人に求めている社会・文化の構造的課題なのだと思います。「誠実・勤勉・友愛」でも報われない環境があるよ、ということも大人の責任として説明するとともに、「誠実・勤勉・友愛」を過度に相手に求める文化や規範意識も、多くの人の幸せのためには毒になるのだということも、自分自身を含めて解像度を上げて向き合うべきものだと改めて感じました。


