近年、教育をアップデートする文脈で、DAO、Web3、学習履歴の可視化、分散型評価といった言葉がしばしば希望の技術として語られている。だが、こうした議論には、しばしば決定的に欠けている視点がある。
それは、教育制度の設計以前に、人がどのような社会的条件のもとで生き、働き、失敗し、再起できるのかという問題である。
教育を変えれば社会が変わる。
この言葉には一理ある。教育は人間の認識や行動に影響を与え、長期的には社会規範にも作用する。したがって、教育改革そのものを無意味だと言うつもりはない。
しかし、それでもなお言わなければならない。
教育改革を社会変革の主戦場として語る議論は、非常にしばしば、現に存在する権力構造と分配構造への介入責任を先送りする。
1. 教育改革論の限界は、「善意」ではなく「時間軸」にある
教育改革論の最大の弱点は、理想の中身ではなく、その効果が現れる時間軸にある。
学校での実践や学びの変化が、社会の中心を担う層の価値観や行動原理にまで届くには、通常、非常に長い時間がかかる。十年、二十年というスパンは決して大げさではない。
問題は、その間にも人々は今ある労働市場でふるい落とされ、今ある社会保障制度の不備の中で消耗し、今ある企業統治のもとで人生を左右され続けるということだ。
つまり、「教育を変えること」は必要であっても、それだけでは現在進行形の苦境に対する処方箋にはならない。
ここで批判したいのは、教育改革の努力そのものではない。
批判したいのは、教育改革を語ることによって、あたかも現在の大人が担うべき制度改革責任が軽くなるかのような語りである。
子どもたちが変われば社会は変わる。
その可能性自体は否定しない。
だがその言い方はしばしば、今の大人が引き受けるべき問い――
労働法制をどうするのか。
社会保障をどう再設計するのか。
企業に握られた生存条件をどう社会に取り戻すのか。
その問いから目を逸らす方便として機能してしまう。
2. 教育が問題なのではない。教育に過剰な役割を背負わせることが問題なのだ
そもそも、教育が過剰に重要視される社会とは何か。
それは、一度の選別が重すぎる社会である。
学歴が強い効力を持つのは、知性の本質的証明だからではない。
失敗のコストが高く、採用後の修正が難しく、再挑戦のルートが乏しい社会で、企業が選抜のリスクを下げるためにそれを使っているからである。
この構造の下では、教育は本来の学びの場である以前に、選別装置にならざるをえない。
そして、教育改革論の多くは、この根本条件に十分触れないまま、評価方法や学び方の改善を語る。
もちろん、それらは無意味ではない。
しかし、選別圧力の源泉が社会側にある以上、教育内部の改善だけでは、結局「より洗練された選別」へ回収される可能性が高い。
ここが最も重要な点である。
問題は、教育が古いことだけではない。
問題は、社会が教育に「選別の外注先」としての役割を押しつけていることだ。
3. DAOは解放の技術ではない。条件次第で管理の技術にもなる
DAOやWeb3を教育に応用する議論は、この点で特に慎重であるべきだ。
なぜなら、分散型、透明性、自律性といった美しい言葉は、それだけでは何も保証しないからである。
学習履歴が細かく記録される。
貢献がトレーサブルになる。
参加が可視化される。
評価が中央集権的機関ではなくネットワーク上で行われる。
こうした特徴は、一見すると既存の学校的・企業的ヒエラルキーからの解放に見える。
だが別の角度から見れば、それは
「何をしたかを常時証明し続けなければならない社会」
の強化でもある。
重要なのは、技術の形式ではなく、それが埋め込まれる政治経済的文脈である。
再挑戦が保障されず、生活が雇用に強く従属し、交渉力が個人に分断されている社会では、精緻な可視化技術はしばしば解放ではなく管理に使われる。
DAOも例外ではない。
企業がそれを使えば、
「正社員として抱え込まず、必要な貢献だけを細かく発注し、評価ログだけ残し、不要になれば切る」
という形で、より低コストな労働力管理へと接続しうる。
したがって、DAOが自律のインフラになるか、新しい首輪になるかは、DAO自体の理念では決まらない。
それを使う主体と、その社会の保障構造、交渉構造によって決まる。
4. 先に変えるべきは、教育技法ではなく、失敗が人生破綻に直結する構造である
本当に問い直すべきなのは、「どう教育をアップデートするか」だけではない。
その前に、なぜ教育にそれほど重い役割を担わせねばならない社会になっているのかである。
この問いに対しては、北欧型のフレキシキュリティや産業別交渉の議論が示唆的である。
もちろん、北欧を理想郷として持ち上げるべきではない。そこにも選別はあり、不平等はある。
しかし少なくとも、日本より明確に違う点がある。
それは、失業・転職・再挑戦が、即座に人生の決定的失敗を意味しにくい制度設計があることだ。
この条件があるとき、入り口での過剰な証明要求は弱まる。
企業にとっても、採用時に完璧な適合を見抜く必要性は相対的に下がる。
個人にとっても、一回の選抜で人生の価値が決まるわけではなくなる。
結果として、教育は「選別のための耐久証明書」から少しずつ解放される。
ここから分かるのは単純なことだ。
教育を救うには、まず教育の外側を変えなければならない。
5. したがって、優先順位は「教育か社会か」ではなく、「どこから手をつけると教育の呪縛が解けるか」である
この議論を誤解してはならない。
言いたいのは「教育はどうでもよい」ではない。
言いたいのは、教育を変えたいなら、教育だけをいじっていては足りないということだ。
優先順位としては、少なくとも次の三つが先行する。
第一に、生活保障を企業所属から相対的に切り離すこと。
雇用を失えば住居、医療、信用、将来設計まで一気に崩れる社会では、人は評価に従属せざるをえない。
この構造のもとで「主体的に学べ」「自律的に参加せよ」と言っても、それは自由ではなく、従属の洗練に終わりやすい。
第二に、個人を孤立させる交渉構造を変えること。
労使が形式的にしか対等でなく、個人が企業と一対一で値踏みされる構造のままでは、新しい評価技術はたいてい使用者側に有利に働く。
評価制度改革より先に、交渉力の再集団化が必要である。
第三に、教育評価を選別の高精度化ではなく、失敗可能性を含んだ成長支援へ組み替えること。
そのとき初めて、DAO的な仕組みも、支配ではなく連帯の道具として検討する余地が出てくる。
6. 最後に問うべきこと
結局のところ、この問題の核心は、技術論でも教育論でもない。
大人が、自分たちの生きる制度の責任を引き受けるのかどうかという問いである。
社会を変えられない。
だから次世代教育に希望を託す。
その願い自体は理解できる。だが、それが現在の制度改革責任の先送りとして使われるなら、もはや美談ではない。
教育を語る前に、問うべきことがある。
なぜ私たちは、子どもに未来を託す話をするときには熱くなれるのに、
自分たちの労働、保障、企業統治、分配の仕組みを変える話になると急に現実的になり、沈黙するのか。
その沈黙を破らない限り、教育改革はしばしば、現状を少しだけ美しく言い換える言葉に堕する。
そしてDAOもまた、解放の看板を掲げながら、実際には管理の高度化に回収されるだろう。
教育を本当に解放したいなら、まず社会の側が変わらなければならない。
子どもに未来を託す前に、大人が現在の制度を書き換える責任を引き受けるべきである。
※現在、私たちが何を子ども達に学んでもらうべきなのか?を社会構造の変革とシンクロして論じる論文を執筆中です。研究会などで発表の機会を頂く予定です。


