ここまでの記事で日本の教育の中で文科省がどのように教育に関わってきたのかについての私見を述べました。今回は苦しんでいる教育現場がコモンズとして新たな存在意義を構築するには何が必要なのかについて考えていきます。ただ、その前にどうしても触れておかなければならないことがあります。一連の教育改革に日本の学術はどうかかわってきたのか?そして、現場の教員は?この問いについてまずは論じておきたいと思います。
悪者になることが多い文科省。しかし、実際に教育改革を動かしてきたのは財界や政界であったことはこれまでの記事で述べた通りなのですが、ここで、もう一つ欠かしてはならない主体があります。それが学術です。
教育改革には、必ず「学術的正当性」が付与されます。その結節点となってきたのが、内閣府の総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)です。CSTI自体は最近のものですが、CSTI以前にも学術は教育改革には積極的に関わってきました。しかし、CSTIはこれまでのように外部からではなく、政財界と学術が三位一体となって教育改革を進めています。CSTIには、発足当初から現在に至るまで、東京大学をはじめとする主要大学の研究者が継続的に参画してきました。この事実を踏まえるなら、日本の教育改革はしばしば語られるような「政治 vs 学術」という対立構図ではありません。もちろん、教育改革に異を唱えている学者も少なからずいます。しかし、実態はむしろ、「政治 × 学術(合議体)」として進行してきた、と理解する方が正確だと思います。
学術は、外部から改革を批判する存在ではなく、改革に正統性を与える側に位置していた。利用できるところを政財界の側が利用したと受け止めることも可能ですが、それでも学術の中でも影響力のある、組織の上層部は教育改革に正当性を与える側として機能してきたのは間違いないでしょう。
学術は「何を言わなかったのか」
学術が一貫して強く主張しなかった問いがあります。
公教育の限られた時間配分の中で、政財界発信の教育は本当に実現可能なのか?
全国一律制度として実装できるのか?
失敗した場合の責任主体は誰が引き受けるのか?
教員の専門性・労働量は制度的に維持可能か?
そもそも、公教育というインフラでやるべきことなのか?
学術は、理論的妥当性や理念的正しさを提示したものの、制度的実装における「境界条件」を強い言葉で示すことはほとんどなかったのではないでしょうか。その結果、実装不可能な改革が、「正しい改革」として制度化された。これは偶然ではないと思います。
なぜ学術は言えなかったのか
重要なのは、これを「学者の怠慢」や「道徳の欠如」に還元しないことです。学術が言えなかったのは、構造の問題です。
第一に、「研究費配分構造の変化」が挙げられます。競争的資金の拡大により、政策前提そのものを疑う研究は成立しにくくなったことは間違いありません。政財界の意向に沿わない発信をする研究は当然敵視され資金を絞られてしまう可能性が高いということです。ただ、これはそうした性格を持つ研究や発信について、市民社会からの信頼を得ることや、学術という共同体が研究者個人の利益を超えて連帯すべきであることを考えると、学術にはやれることがあるように思います。
第二に、CSTIの制度的性質。CSTIは「目標の是非」を問う場ではなく、「既に与えられた目標をどう実装するか」を議論する場。前提を否定する立場は、構造的に発言力を持ちにくいでしょう。そもそも、内閣府直属で各省庁を超える位置づけですので、目標の是非を問うはずもないと言えばそれまでです。しかし、ここに参加する研究者が自らのエゴやポジションにこだわった振る舞いをすることを、研究者コミュニティが厳しく弾劾するような動きや文化が存在して欲しいと思います。
第三に、「国際標準」という免責装置。OECDやCEFRといった国際的枠組みは、理論的反論を困難にする一方で、制度的実装可能性の検証を曖昧にします。大学入試問題や偏差値教育は批判しても、OECD・PISAを批判する日本のメディアはほとんど皆無であるように思います。
第四に、学問の過度な専門分化。英語、情報、探究——。各分野の部分合理性は保証されたとしても、全体合理性を引き受ける主体が存在しなくなったことも大きいのかも知れません。
結果として、「誰も間違っていないが、全体としては破綻している」改革、「合成の誤謬改革」が成立した、私の目にはそう見えます。
これは教育改革ではない
ここまでを一本で繋ぐと、構図は明確です。
国家:統治可能性のため、価値判断を回収した
市民社会:教育を商品化し、比較可能な成果を求めた
学術:理論を供給したが、境界条件を強く示さなかった
行政:それを制度に翻訳し、全国に実装した
現場:意味と裁量を失ったまま、責任だけを引き受けた
これは、教育改革ではありません。社会構造が生み出した病理であると言っても過言ではないと思います。教育現場が苦しいのは、努力不足でも、特定の省庁の陰謀でもない。信頼によって成り立っていた制度が、信頼を失ったまま運用されている。それだけの話ではないでしょうか。クラスサイズも変えない、予算も増やさない、その一方で責任を転嫁し、評価可能で数値化できるもののみを学校に導入する。
学術の沈黙の先にあったもの
ここまで見てきたように、日本の教育改革は、学術が「理論的正当性」を供給しながら、制度的実装における限界や負担の所在について、強い言葉で線を引くことができなかった結果として進行してきたと私は考えています。だが、問題はそれだけではありません。学術が境界条件を示さなかったとき、その空白を埋めるように、もう一つのポジショントークが教育現場の内側から立ち上がってきた。それが、現場教員自身の語りです。
現場教員は「被害者」だったのか
これまで、教育現場はしばしば「上から押し付けられる改革に苦しめられる被害者」として描かれてきました。確かに、現場に過剰な負担が集中してきたことは事実だと思います。しかし、それだけで現状を説明することはできません。なぜなら、現場教員自身もまた、公教育というコモンズに、自らにとって都合のよい教育観を流し込んできた当事者だからです。
教員の語る「正しさ」の正体
たとえば、次のような言説は、多くの学校で、ほとんど疑われることなく共有されてきました。これは私の35年を超える教員人生で私自身が見て教員の姿であり、もちろん、私自身も例外ではありません。
・自分の理想とする教育は、社会にとっても必要である
・自分が居心地のよい空間こそが、学校のあるべき姿である
・自分の教育観は、他の教員も共有すべきである
・自分のこれまでの経験は、否定されるべきではない
・自分が不安や恐怖を感じることは、組織として避けるべきである
これらはいずれも、善意や使命感に基づいて語られることが多いものです。しかし冷静に見れば、これらはすべて「自分にとってやりやすい教育」を普遍化する試みに過ぎないのではないでしょうか?
学校の私物化という問題
ここで起きていたのは、学校という公共空間の、静かな私物化と教員のムラ社会の力関係によって決まる学校の在り方です。
・部活動こそが人格形成の場である
・入試で勝たせることが教育の正義である
・学校は、生徒と教師が青春する場である
この他にも色々ありますし、現在話題の「探究」も含めて、結局は自らが正義と信じる教育をムラ社会の中で優位にすることで、自らを正当化しているに過ぎない。私自身を含めて、そう言わざるを得ないと私は思います。
これらの言葉は、美しく聞こえます。だが同時に、それらは特定の教員像・特定の成功体験・特定の価値観を学校全体の規範として固定化する装置として機能してきたのではないでしょうか?
その結果、教員自身が安心できる構図、教員が優位に立てる関係性、教員の経験が否定されない空間が、「教育の名のもとに」守られてきた。そして、それが強く否定されているのが現在の学校とそこにいる教員だと私は感じています。ただし、この「現場の私物化」という罪は、すべての教員に平等に割り振られるものではありません。自らの教育観を規範にまで昇華できたのは主に中堅・ベテラン層です。その一方で、今の若手は先輩たちが築いた「ムラの掟」と、上から降ってくる「商品化された改革」の板挟みに遭い、自律の芽を育む前に、単なる「構造の末端」として生存することに汲々としているように私には見えます。現場の自律を語るなら、この世代間の非対称性からも目を逸らすべきではありません。
管理職の沈黙と責任回避
さらに問題を深刻にしたのが、組織リーダーとしての管理職の振る舞いです。不安や恐怖を感じる改革には手を出さない。対立や混乱が生じそうな議論は先送りする。「前例がない」「責任が取れない」を理由に、判断をしないという判断を続ける。こうした態度はしばしば「慎重さ」や「現場理解」と呼ばれてきたこともあるでしょう。しかし実際には、それは組織を守る行為ではなく、自分の立場を守るための無為であった場合も少なくないのだと思います。
誰も「悪者」ではないが、誰も「無関係」ではない
ここで強調しておきたいのは、これが教員個人の資質や道徳の問題ではないという点です。学術が語れなかったのと同じように、現場の教員もまた、自らが置かれた制度・評価・文化の中で語れる範囲の言葉を語ってきただけです。しかしその結果として、学校は次第に、多様な価値観を受け止めるコモンズではなく、特定の大人にとって居心地のよい空間へと傾いていった。私は教員という大人も、被害者ではなく、当事者だと強く思います。
「外部からの評価など一切受け付けない」とする教員の態度は今でも珍しいものではありません。そして、それこそが市民社会での信頼を大きく落としたことはまぎれもない事実だと思います。学校という空間では、制度そのものが「教員が上位である」という役割を演じさせてきました。しかし、自らの資質ではなく、制度が「生徒の上に立つ」というポジションを、つまり演劇性とも言うべきものがあってはじめて教員が教師を演じることを可能にしていただけであるとは気づかずに、自分を偉いと勘違いしている教員が多かったのではないでしょうか。
また、メディアの罪も重い。演劇性を排除した空間で、圧倒的少数である生身の教員が、あらゆる理想の体現者として24時間子どもと向き合うべきであるというイメージを強く発信してきました。ジャニーズ問題をはじめ、いじめや加害という問題を放置し続けてきた自分たちへの自己批判などは行わず、常に強者の立場から学校をたたき続けてきたし、今でもそれは変わっていない。
ただ、それでも、教員は被害者であるとは言えない。なぜなら、教員もまたコモンズを守るのではなく、コモンズを壊してきた大人でしかないからです。結果として、様々なものが持ち込まれた今の学校は、市民社会の中で存在意義を持たないものとして壊れ続け、今崩壊寸前の状況にある。そんな修羅場に敢えて飛びこもうとする人材がこれから増えることはないでしょう。
次回予告へ
学術も、行政も、現場教員も、それぞれが自らのポジショントークを語り続けた結果、学校はあらゆる正義が衝突する場となり、それぞれのムラ社会の力学や外圧によってコモンズとしての意義を失っていった。その惨憺たる現状の学校を、「変われない空間」として断罪する声は多く強いのが現状です。しかし、では社会の側は、どうなのか?そうした言葉を吐いている人たちは果たしてどれほど市民としてコモンズを大切に考えてきたのでしょうか?
次回は、「学校は古い」「教育は遅れている」と言われるその中身を、社会の価値観と照らし合わせながら検証していきたいと思います。
この記事を書いた人
esn


