探究研究鮫島慶太

教育現場は、なぜここまで追い詰められたのか ――文科省批判では届かない、日本の教育をめぐる統治構造の変化 ④

前回までの記事では、民間英語試験やプログラミング教育をめぐり、その「発火点」が必ずしも文科省にあるわけではなく、財界や政治からの要請を文科省が教育制度の言葉へと翻訳してきた実態を見てきました。

今回は、一見すると文科省が主体的に推進しているように見える「総合的な学習の時間」および「総合的な探究の時間」を取り上げます。この科目は、なぜ生まれ、なぜ形を変えてきたのか。そこには、日本社会が長い時間をかけて「教育の正当性」を失い続けてきた過程が深く関わっていると思います。

1.日本教育における「権威」の変遷

日本の教育を支えてきた「正しさの根拠(=権威)」は、時代ごとに大きく変化してきました。

時代

教育を支えた権威

教育の役割

明治〜戦前

国家・天皇

国民を均質化し、国家に適合させる

敗戦直後

GHQ(外部権威)

民主主義という新しい理念の導入

高度成長期

「現実」の成功体験

勉強=就職=豊かさ

1990年代以降

なし(空白)

教育リスクが家庭へ移動

高度経済成長期まで、文科省は「教育の意味」を積極的に語る必要がありませんでした。「勉強すれば生活が良くなる」という現実そのものが、教育の正当性を保証していたからです。しかし、バブル崩壊と終身雇用の揺らぎによって、その前提は静かに崩れていきました。

2.1990年代:教育が「商品」になった瞬間

1990年代以降、教育の最終責任は、

国家 → 企業 → 家庭

へと、明確な議論を経ないまま移動していきました。

企業が人材育成の主導権を手放した結果、教育は「公共財」ではなく、比較・選択・投資判断の対象である「商品(投資対象)」へと変質していきます。市民社会が教育に求める基準も、次第に次のようなものへと集約されていきました。

  • 成果は可視化できるか(コストパフォーマンス)
  • 他と比較できるか(偏差値・実績)
  • 投資回収は可能か(将来の年収・安定)

教育は、「信じるもの」から「評価されるもの」へと変わっていったのです。

3.「総合的な学習の時間」──文科省が設けた緩衝帯

こうした状況の中で、1998年に導入されたのが「総合的な学習の時間」でした。これは単なる理想主義ではなく、文科省による行政的な緩衝帯(クッション)としての性格を持っていました。

  • 財界の「即戦力要求」を正面から否定しない
  • しかし、教科や入試に直結させない
  • 内容は学校裁量に委ね、評価はあえて曖昧にする

文科省は、
「役に立つ教育をしろ」という社会的圧力が、そのまま学校現場に降りかかることを防ぐ防波堤として、この科目を設計したと見ることができます。しかし、この「曖昧さ」は、成果と効率を求める教育の市場化が進んだ市民社会とは、致命的に相性が悪いものでした。結果として、「総合的な学習の時間」は「ゆとり教育」という一括りの物語の中で、否定的に語られていきます。

4.「総合的な探究の時間」──市場適応としての再設計

現在の「総合的な探究の時間」は、前身の理念を受け継ぎながらも、決定的に異なる点を持っています。それは、「入試」という価格が付与されたことです。少子化による大学の生存競争、年内入試の拡大と重なり、探究は初めて「市場で評価される教育」になりました。

  • 探究は評価される → 点数になる
  • 探究は無駄にならない → 合否に結びつく

これは、教育的進歩というよりも、商品化された市民社会への適応と捉える方が自然でしょう。

現在、「探究」を冠した教育ビジネスが急増しているのも、それが子どもたちの生涯の幸福を直接保証するからではなく、市場における信頼性を示す装置として機能する可能性を持っているからです。

5.「三位一体」で成立した探究改革

「探究」という言葉が、政治的にも社会的にも安全なものになった背景には、次の三者の合流があります。

  • 経団連:「知識中心の教育ではイノベーションが生まれない」という人材要求
  • OECD:「キー・コンピテンシー」という、経済・社会的に中立に見える能力概念
  • 学術界:「主体的・対話的で深い学び」という理論的枠組みの整備

文科省は、これらの労働市場の論理を、「資質・能力」「人間形成」といった教育語へと、過剰なほど丁寧に翻訳していきました。剥き出しの経済的要請を、教育という包み紙で包み直す作業を引き受けたのです。

結論:なぜ文科省批判では届かないのか

「総合的な学習・探究」は、文科省の理想主義が暴走した結果ではありません。それは、教育の正当性を失い、教育を商品化した社会において、文科省が引き受けざるを得なかった説明責任の代行の産物です。

現場に負荷が集中し、教員が「社会の正解」を語る役割を背負わされる。教育改革は、市場原理に適合しようとして空回りを続ける。

文科省を叩いても、教育が「商品」であり、リスクが「家庭」に押し付けられている、この構造自体は変わりません。

今、私たちが問うべきなのは、「公教育は、市民社会に対して何を最低限保障すべきなのか」という根源的な問いです。学校は、過酷な市場競争から子どもたちを守るアジール(避難所)としての機能を回復できるのか。それこそが、私たちが真正面から向き合うべき課題なのではないでしょうか。

📚 出典・参考文献

  • 日本経済団体連合会(2000)『グローバル化時代の人材育成について』
  • OECD(2003)『キー・コンピテンシー』
  • 文部科学省(1998)『学習指導要領改訂のポイント(総合的な学習の時間の創設)』

(編集後記)

「探究」に限らず、教育が時代に合わせて形を変えていくことは、本来は進化として前向きに捉えられるべきことだと思います。また、私は人生100年時代に一人一人の子ども達がWell-beingを実現するキッカケとして探究というコンセプトは素敵なものだと思っています。しかし、それが市民社会で支持を受けるかどうか、生き残るかどうかは、残念ながら、探究を生み出した人々の想いとは別のところで決まってしまうのかも知れないと思うとやりきれなさを感じます。

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