前回までの記事では、文科省が「絶対的な権威」として振る舞っているというよりも、現場の忖度や、財界・政治からの要請を「教育制度の言葉」へと翻訳する役割を担わされてきた実態を整理してきました。
今回は、近年急速に進む「情報教育」と「文系入試における数学」を取り上げ、この国の教育を動かしている「本当の力」がどこにあるのかを、引き続き構造的に考えていきたいと思います。
1.「情報・プログラミング」の種は25年前に撒かれていた
小学校でのプログラミング教育必修化や、共通テストへの「情報Ⅰ」導入。これらを「文科省の思いつき」と捉えるのは、正確ではありません。この流れもまた、2000年前後の経済界による提言に源流があります。経済団体連合会は、2000年の提言の中で、次のように述べています。
「情報リテラシーが、生活上の基礎的な能力となる。すべての生徒が初等中等教育の段階から、読み書き算盤と同等のものとして『情報リテラシー』を身につけることが求められる。」
(経済団体連合会『グローバル化時代の人材育成について』2000年)
その後、「Society 5.0」という産業政策上のスローガンのもと、内閣府や経済産業省が主導する形で、情報教育の強化が繰り返し打ち出されていきました。
文科省が示した「推進」ではない対応
ここで文科省が果たした役割は、単純な推進というよりも、現場への衝撃を和らげるための調整に近いものでした。
- 新しい教科を設けない
- 授業時数を原則として増やさない
- 「プログラミング教育」を「プログラミング的思考」と言い換える
文科省は、現場の学力差や人材・設備の制約を熟知しているからこそ、政策の要求をそのまま通すのではなく、強度を下げて翻訳することで、学校現場への直接的負担を抑えようとしたと考えられます。
2.推進の旗ではなく「限界認識」としての入試導入
しかし、経済産業省が主導する「未来の教室」プロジェクトや、「このままでは取り残されるのではないか」という保護者・社会の不安が、こうした調整の余地を次第に狭めていきます。その結果、文科省が選んだのは、理念としての推進というより、現実的な限界を認めた対応でした。
「入試に位置づけなければ、学校現場では十分に扱われない」
——これは、長年の教育行政の中で共有されてきた、ある種の経験則です。
共通テストへの「情報Ⅰ」導入は、この経験則を前提にした、苦渋の判断だったと見ることもできます。
この決定により、現場は次の連鎖に巻き込まれます。
- 入試科目化される
- 指導責任が学校に集中する
- 教員の専門性不足と業務負担が一気に顕在化する
こうして、本来は産業政策上の要請であったはずの負担が、最終的に「文科省のせい」という形で、現場の不満として可視化されていきました。
3.「文系数学」の再浮上と大学経営の論理
数学についても、経済界は25年前から、いわゆる「少数科目入試」の弊害を指摘してきました。
経団連の2000年提言では、次のように述べられています。
「経済学部の数学抜きの試験など、少数科目入試の弊害も深刻になりつつあるので、科目数の見直しも併せて実施すれば、事態は改善されよう。」
この問題提起に、最も早く、かつ明確に反応したのが早稲田大学でした。では、なぜ他の多くの私立大学は、同様の判断を取りづらかったのでしょうか。
偏差値と志願者数という「経営上の制約」
かつて私立大学が数学を外した背景には、経営上の合理性がありました。
- 数学を課さない
- 志願者が増える
- 倍率が上がる
- 見かけの偏差値が上がる
この循環は、私立大学にとって無視できない現実でした。
慶應義塾大学の経済学部が最後まで数学を課し続けたことは例外的であり、多くの大学はこの「経営の波」に飲み込まれていきました。
その中で早稲田大学が再び数学を課した判断には、教育的信念だけでなく、企業評価や就職実績を含めた競争環境を見据えた、現実的な計算が含まれていたと考えるのが自然でしょう。
4.学術界における「立場依存的な議論」
情報の共通テスト導入や、数学の必須化をめぐって、大学教員からは賛否両論が提示されています。
ただし、その議論の多くは、次の問いを十分に引き受けているとは言い難いように見えます。
- 公教育のリソース(時間・人員・予算)は有限である
- その制約の中で、何を優先し、何を切り捨てるのか
にもかかわらず、議論が
- 自身の専門分野の地位
- 研究費やポストへの影響
といった観点に引き寄せられてしまっていると見える場面も、少なくありません。
文科省という「翻訳者」を批判しながら、その背後にある構造的な負担の偏りには踏み込まない——
この姿勢が、結果として現場の疲弊を不可視化してきた面も否定できないでしょう。
結論:当事者が見えにくい教育改革
「情報」も「数学」も、それ自体の重要性を否定する人は多くありません。問題は、誰の要請によって、どの順番で、どのコストを伴って学校に降りてきたのかという点です。
改革を求めているのは、現場の教員や生徒というより、その成果を社会・経済の側で活用しようとするセクターです。一方で、そのコストは、学校現場に集中的に転嫁されています。
文科省を批判することに終始するあまり、「誰が利益を得て、誰が負担を引き受けているのか」という最も基本的な構図を、私たちは見失ってはいないでしょうか。
次回は、近年の教育改革の象徴とも言える「総合的な探究の時間」を取り上げ、この統治構造の中で、それがどのような役割を担わされているのかを考えていきます。
📚 出典・参考文献
- 経済団体連合会(2000)『グローバル化時代の人材育成について』
- 内閣府「Society 5.0」関連資料
- 経済産業省「未来の教室」プロジェクト資料
(編集後記)
「情報」や「数学」が必要であること自体を否定する人は少ないでしょう。しかし、「なぜ今、この形で、学校に降ってくるのか」を問わなければ、現場は永遠に政策の下請けであり続けます。次回は「探究」について考えていきます。
この記事を書いた人
esn


