少子化により、18歳選抜での輪切りシステムが崩壊しようとしています。私はこのシステムを、学歴と点数で18歳を輪切りにしてきた「和風科挙」と呼んできました(このネーミングは関西のある先生がオリジナルです)。
いよいよそれが構造的に維持できなくなる局面に入っています。
そんな中で、従来の受験勉強から脱却し、学びを本質に近づけるものが「探究」である、といった発信については、個人的な価値観として異論はありません。むしろ必要だと思います。
ただし、その「探究」についても『目的』が曖昧で分かりにくいという指摘もありますし、そもそも探究を目的で規定すればするほど、成果主義とパッケージ化に回収されやすい気がします。
しかも、相変わらずこの国においては、大学入学前の学びが大層重要らしく、「探究」についてもまるで18歳までに行うべきものであるかのような大人の上から目線ばかりが目立ちます。学びの舞台を高大接続部分に限定する発想こそが、むしろ学びの可能性を狭めかねない、と個人的に感じています。
また、「探究=基礎学力低下の要因」と単純化する言説には全く賛同できませんが、受験があるから勉強してきた生徒達は少なからずいるわけで、学びの動機付けをこれまでとは違った形でやらなければならなくなることの大変さを、現場目線で理解していると思える発信も非常に少ない気がします。
簡単に言えば、現在の学校は、クラスサイズや教室デザイン、教員というリソース面で、生徒全員に短期目線での成果に回収できる探究をさせる設計にはなっていませんし、と同時に、受験ではない動機付けで学ばせる力があるとも思えない。この課題をどう解決するのか?について話題にならないまま、変化が起これば崩壊することを直感している現場教員の中には防衛的なポジショントークが根強く継続することになるし、現場を知らない有識者とかいう人たちは、具体論を最後には抽象的な概念にあげて発信を終わる人たちが大半で、そういうのに触れる度に「それ、気持ちは分かるけど、現場は1ミリも動かないやつね」という感想を持たざるを得ません。
私はこれまでに何度も発信してきているように、「流動性と学びを中心に据えた保障」を備えたフレキシキュリティ社会にならない限り、教育制度や入試制度をどのようにいじっても社会はよくならないと考えています。
ただ、今回は「べき論」はひとまず横に置きます。今回のブログでは、以下のテーマについて考えたいと思います。
和風科挙がシステムとして崩壊する時、私たちは高校卒業までの学びとして何を保障すべきなのか?
これは、市民社会の中での学校の存在意義として、学校関係者が避けて通れないテーマだと思います。ここでは、いわゆる「浮きこぼれ」の問題には触れません。世界の天才たちと闘える日本の天才たちを国家の財産として公教育の中でどう扱うべきか?については、個人的には年齢その他に関係なく特別扱いして対応すべきだと考えますし、何でも平等に扱うことが正義だとも私は思っていません。ですので、今回は一般的な公教育に限定して話をします。
目次
学びを支えるエンジンは「2系統」でよい
私の考えは特に珍しいものでありません。学びを支えるエンジンを「2系統」に分けるというものです。
(A) 最低保障:知識・技能 → 読解・論理・数理・法の知識など
(B) 個別の学び:探究 → 大学では研究。高等学校の成果は高大接続では問わない
高等学校までの初等中等教育は、(A)については従来通り評価対象とし、(B)については「場」を与えることに限定し評価対象としない。こうすれば、探究は個々の生徒のWell-beingを向上させるものとして入試に歪められることはなくなる。
大学受験も、(A)のみとし、最低限の知識・技能を備えた学生の選抜は緩く行い、1点刻みのスクリーニングは行わずに、入学後にじっくりとスクリーニングする。そのスクリーニングを通過しない学生には、リメディアルを含めた学び直しを大学単位ではなく横断的に実施することで、社会・学校において何度でもやり直せる設計にする、というものです。少子化に伴い経営破綻する大学は再教育機関として再生すればよい、と思っています。
本題:共通テストは「最低保障の確認」として機能しているか?
と、前置きが長くなりました。ここからが、本題です。
(A)の最低保障すべき読解や論理の確認として、現在の共通テストはどこまで正しく機能しているのか?というのが今回の本当のテーマです。
で、今年の国語の現代文の大問1の問4について、正直出題の仕方に腹が立ったという話をします。
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最低保障すべきスキルとしての出題になっていない。
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出題者の出題の意図と論理が整合していない。
これが私の怒りの原因です。問題については、以下をご覧ください。
https://www.toshin.com/kyotsutest/kokugo_question_0.html
今年の現代文の大問1は 櫻井あすみ 「『贈与』としての美術・ABR」からの出題でした。この筆者のことは知りませんし、文章を読んだのも初めてでしたが、個人的には好きな文章で深さを感じました。
この文章を解説している動画もYouTubeで何本か見ましたが、「芸術=言語化できないもの」をどのように他者に届けるか?といった解説が多く、ちょっと残念でした。間違っている解説ではないとは思いますが、筆者の表現していることはそんな単純な図式に納まるものとは思えないからです。その点は後述するとして、まず私が違和感を感じた問題4について見てみましょう。
問4(共通テスト2026 国語・現代文 大問1)
問4 傍線部C「冒頭からこれまでの記述は幼少期の私的な記憶の追想と、現在の制作についての〈パタイユの影響〉を多分に含んだ個人的な解釈にすぎない。」とあるが、筆者はなぜこのように述べるのか。その説明として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。解答番号は 8 。
① 言語では把握不可能な幼少期の体験の記憶を、素材の変容を味わう制作過程の「これまでの体験」と比較し相対化することで、他者と共有できないこれら複数の感覚を芸術的体験の多様性に関わるものとして強調しようとしているため。
② 見慣れた景色がかりえないものに変容するという幼少期の記憶を、制作に向かうわたしの体験と重ね、それが芸術の根源にもつながる問題であると述べることで、私的な体験を一般に通通するものとして提示しようとしているため。
③ 他者と共有できない「美しさ」の存在を、幼少期の体験や作品制作に関わる個人的な事例を具体的に示すことで、芸術の根源にも通じる抽象的で他者と共有困難な美学的概念について誰にでもわかるものとして提示しようとしているため。
④ 幼少期の美しい風景との出会いが、現在の制作過程においても繰り返し起きていることを述べながらも、これらの体験が個人的な解釈にすぎないと自覚することで、芸術を主観的な価値を持つものとして説明しようとしているため。
正解は②です。ちなみにGeminiは正解しました。ChatGPTは①を選んだり③を選んだりと解答がブレました。
私は・・・。答えがなくない?と腹が立ちました。
もちろん、正解を出すという行為は筆者ではなく出題者の意図をくみ取り、聞かれていることを正確に把握した上で、消去法により誤った内容になっているものを消して正解にたどり着くのが現代文のセオリーです。しかし、そうした問題は市民社会が納得する高校までの教育が保障すべきスキルなのか?という点を、この国の大人たちはもっと真剣に考え直した方がよいと思います。
なぜ腹が立ったのか(傍線部Cの前後)
では、私がなぜ腹が立ったのか、をもう少し詳しく説明します。この下線部の前後を抜き出すと以下の通りです。
冒頭からこれまでの記述は幼少期の私的な記憶の追想と、現在の制作についての〈パタイユの影響〉を多分に含んだ個人的な解釈にすぎない。にもかかわらず、こうした感覚が決してわたし一人だけのものではなく、多くの人々にとって—日常の中に至るまで、あるいはプロのアーティストと呼ばれる人々による専門的な作品制作に至るまで—あらゆる形で繰り返し起きているあの感覚、何かを美しいと感じたその瞬間に言語的意味が剥奪され、わかりえないものへと変容していく感覚は、それゆえに他者と完全に共有することが不可能なものである。しかし、それはわたしの個人的体験に留まらず、おそらく「美」あるいは「芸術」というものの本質に関わる事柄である。
下線部をXとおくと、論理は、
X にもかかわらず A しかし B
という構造になっています。
この原文にも、論理構成上不自然さを感じるのですが、芸術家が何かを伝えるために書いた文章ということを考慮すると、この文章を論理だけで斬るのは野暮な話だと思うので、そこに不満はありません。
しかし、この問題に下線部を引いた出題者は芸術家でも何でもありませんよね。であれば、出題には、市民社会が了解可能な論理的根拠が求められます。
問題は、
「筆者はなぜこのように述べるのか」
です。
Geminiの解説は精緻で、②が正解であること自体は納得できる
正解できたGeminiの解説を以下紹介します。
(※ここからGeminiの要旨紹介)
傍線部Cが含まれる箇所は、文章の前半(幼少期の体験と現在の制作論)から後半(「美」や「芸術」の一般的な本質論)へと移り変わる転換点に位置しています。
ここで筆者が「~にすぎない」とあえて謙遜的な表現を用いるのは、単なる思い出話で終わらせるためではなく、その個人的な体験の中に、芸術全般に通じる普遍的な真理が潜んでいることを提示するための布石です。
選択肢②は、本文の論理展開を過不足なく説明しています。
そして消去法として、
①は「多様性」を論じているわけではなく「共通の本質」へ繋げている点で不適切。
③は「誰にでもわかる」に行き着くのは本文と矛盾。
④は「主観の肯定」ではなく「一般論へ接続する」意図が中心。
という整理です。
この説明で納得しないところはない、というか生成AIがここまで精緻に解説できることには驚きしかないです。
ただし私としては、④の説明は若干弱い気がします。「主観的な価値を持つ」ということは他者との価値共有は問題にならないという話ですが、筆者は自分が楽しむためだけに作品や文章を書いている訳ではないと感じるからです。(筆者の芸術観は主観レベルに回収されるものではなく、相互主観性を意識していると思います)
ここまでのGeminiの解説で納得がいった人であれば、「では②が正解で問題ないのでは?」とお感じになるかも知れません。
しかし、ここで再度設問に戻ってみましょう。
私が問題にしたいのは「問いの意味が一つに定まらない」こと
設問はこうです。
「冒頭からこれまでの記述は幼少期の私的な記憶の追想と、現在の制作についての〈パタイユの影響〉を多分に含んだ個人的な解釈にすぎない。」とあるが、筆者はなぜこのように述べるのか。その説明として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
この設問は、
X にもかかわらず A しかし B
という流れの中で、
「なぜ筆者はXと述べたのか?」
を問う設問ですよね?
つまり、
「私がこれまで述べてきたことは、人の理論にも影響を受けて述べた個人的な解釈にすぎません。」
と筆者が言った理由ですよね?
私が問題にしたいのは、この設問の意味が一つに定まらない、ということです。
Geminiの解説は、傍線部Cが段落全体の中で担う「Author’s Purpose(読者に何を伝えるために置かれたか)」としては、もちろん成立します。
しかし、「個人的な解釈にすぎない」という筆者の言葉は、様々な他の解釈の可能性があることを前提にした言い方です。それは一般化と整合性があるとは言い難い。
筆者の言葉を論理的に分かりやすくすると、こうなります。
解釈としては個人的なものだとしか言いようがないが、なぜかこの感覚が私一人に限定されず、普通の人からプロのアーティストの感覚として存在する(個人的なものではない)。
でもそれは主観的なもので他者と共有は不可能(であることは間違いない)。
でも個人的体験に留まるものではなく、一般化できる本質である。
つまり、
私の解釈=個人的 しかし 私の解釈=他の人の感覚 しかし 他者との共有は不可能 しかし 芸術の本質
という話です。
もう一度、筆者の文章に目を通してみて下さい。
冒頭からこれまでの記述は…個人的な解釈にすぎない。にもかかわらず…決してわたし一人だけのものではなく…しかし…共有は不可能…しかし…芸術の本質…
では、設問に戻ります。
ここで「筆者はなぜ自分の書いてきたことは個人的解釈に過ぎない」と言ったのか?
この問いをその後の文章展開として読めば、
(A)筆者の文章=個人的解釈/感覚=他者と共有不可能
⇔
(B)私一人の感覚ではない・美や芸術の本質
という構図です。
ここで(A)=主観、(B)=客観ではなく相互主観(間主観)という枠組みで捉えると、
①「芸術的体験の多様性を強調」→ 主観の多様性の話ではない
③「誰にでもわかるものとして提示」→ 客観の話ではない
④「芸術を主観的な価値を持つものとして説明」→ 主観の話ではない
ということで①③④が不適切となるのは分かります。
しかし、②はどうでしょう。
②は、下線部Cを含む段落全体の筆者の言いたいことではあるものの、
Xの部分、つまり「私の文章=個人的解釈=主観にすぎない」と言った“理由”にはならないですよね?
『なぜ(理由)』を問うているのに、正解の選択肢は『何のために(目的・機能)』を答えている。
この問いと答えのズレこそが、論理的思考を『最低保障』として評価すべき試験において致命的な欠陥になるのではないでしょうか?
だから、正しい問いは、
「この段落全体が言いたいこととして適切なものを選べ」
という問いにすべきだった、というのが私の見解です。
「筆者はなぜこのように述べるのか」という出題者の言葉の意味が、
「ここで筆者はこう述べているが、結局何が言いたいのかということを続く後ろの文章や全体から判断しなさい」
という意味ですよ、というのは、普通の市民社会で通用しますか?
このような大人の姿勢、つまり発信者ではなく受信者にこそ文章の読解の責任はある、という傲慢な姿勢は、芸術では許されても、凡人である市民に過ぎない出題者には許されない甘えでしかない、というのが私の怒りの理由です。
私の読み:この文章は「芸術=言語化できない」で終わらない
さて、今回の文章、「芸術って言語化できないものを表現することだよね」みたいな解釈に着地させてる解説が多いのですが、私は少し違和感があります。私の読み方を少しご紹介します。
冒頭部分の筆者の幼少期の振り返りですが、筆者が完全なアウトサイダーとして描かれていることを感じました。アウトサイダーとはコリン・ウイルソンの著書のタイトルで、1950年代に話題になった作品ですが、
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子どもにも社会があり見えない約束事があった
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私はそのルールをリアルに感じて共有することができなかった(実感が伴わない)
さらに続く文章でも、
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私がどうしても気になるもの = いわゆる美しいもの(みんなが共有している美)ではない
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私がどうしても気になるもの = 私にとっての「美しさ」
と続きます。
「心惹かれた対象が樹木や草花であっても、それらの名前や種類には不思議なほどに興味がなかった。」と筆者が述べるのは、相互了解が前提の分類や名称は、私がどうしてもリアルに感じられない「客観」に属するものだったからでしょう。
「世界が意味あるものとしての輪郭を失い、言葉で把握不可能なものとなり、『ただそのようなもの』としてそこにあるものとして感じられることが、わたしには重要だった。」という表現も、自らが実感しうるものだけが自分にとって大切なものだという流れが理解できて、いや自分も同じように感じた経験を土台にして共有できてはじめて、リアルに感じられるのではないでしょうか?
「主観がリアルなものとして捉える他者」と「客観世界の中で自分にはリアルと思えない他者」の性質の違いを、筆者は
「日々のコミュニケーションの中で感じる他者のわかりえなさと異なり、不思議な心地よさを味わわせてくれるものだった。」
と説明しています。
この辺りも、「主観」「客観」という二元論的なフレームを超えて理解しなければ、おそらく読みがズレてしまうと私は感じました。
この後は、筆者の体験が認識レベルではなく、動的な生のレベルで語られていきます。ゆえに作品も静的な完成品ではなく、常に動的なプロセスを経て生まれるものであり、それは「描きたい絵のイメージに沿ったモチーフ」ではなく、常に変化し続ける「何ものにも変換不可能なものとしての世界」で、「固定化不可能な対象」、つまり動的なものとして筆者に意識されている訳です。芸術は私的なイメージで動的世界を歪めてしまうのかも知れないが、世界との出逢いを新たなものとして生み出していく営みだと続きます。
ここで、今回取り上げた下線部Cの箇所。私は、
(A)筆者の文章=個人的解釈/感覚=他者と共有不可能
⇔
(B)私一人の感覚ではない・美や芸術の本質
という構図を、(A)=主観、(B)=客観ではない別の概念に相当する世界、つまり相互主観(間主観)という枠組みで読みました。
ちなみに、鴻上尚史さんという演出家が昔立ち上げた「第三舞台」という劇団がありますが、あれは「役者」「観客」の間に存在する第三の世界という意味です。私の勤務校の中学生向け進路講演でお逢いしましたが、彼の実現した講演はまさにこうした芸術そのものだったように思います。
筆者は「客観」という言葉を使い、芸術が“そこにあるもの”ではないことを語っている
筆者は続く箇所で明確に「客観」という言葉を用いて、芸術がそこにあるものではないという本質について触れています。
「美しい」と言われるものがある。輝く宝石や色とりどりの花束、雲を紅く染める夕焼け空、モネの描いた睡蓮か光琳の屏風などを見て、多くの人は美しいという感想を持つだろう。ある人にとって美しいものは、おそらく他の人々にとっても概ね美しい。そのとき美しいものとは、何らかの客観的で社会的な価値を有すると信じられている。その一方で美しいものは、それを美しいと判断する主体の主観的で個人的な価値にも強く支えられている。ゆえにわたしたちは、他の誰も目を留めないものに美しさを見出すこともあれば、人が絶賛する著名な美術作品にどうしても美しさを見いだせないということもある。同じものを美しいと思っても、なぜ、どのようにそれを美しいと感じるのかは人によって異なる。その理由を他者に説明し尽くすことはおそらく不可能であり、自分自身ですらそのすべてを把握することは困難であるだろう。美しさや芸術は、言語的に理解不可能なわかりえなさを必然的に内包している。
もう少し続くのですが、興味のある方は是非お読みいただければと思います。
おわりに
怒りを出発点に長々と文章を綴ってきました。最後までお読みいただいた方々、ありがとうございました。


