鮫島慶太鮫島慶太

センター試験について⑤ 国語(現代文) To be or not to be

今年のセンター国語は、神か仏のような顔に見えた受験生も
多かったのではないでしょうか?

昨年に続き、若者がリアリティーを感じやすいテーマからの出題。
(古漢も基本的で素直な問題が多く、例年苦戦する理系学生も満点が珍しくない)

数年前の小林秀雄の芸術論や江戸時代の漢学とエリートといったテーマ、内容に
比べれば、少なくとも「何を言ってるのか分からない」と感じた受験生は
あまりいなかったのではないでしょうか。

それでもセンター試験において国語が最も怖い科目であることは変わりません。
その理由は、

① 現代文100:古文50:漢文50 という美しすぎる科目バランス(古漢の配点が高い)
② 一問の配点の高さ(1問落とすと8点マイナスもある。3問差で24点差がつく)

の2つでしょう。

ちょっとした勘違いやテキスト内の根拠の見落としや思い込みで
総合点がガラッと変わってしまう

これがセンター国語の怖さです。

これはセンター英語にもある程度言えますが、問題数の少なさを考えると
間違えた場合のダメージは国語が一番大きいですよね。
(国語マーク数36 英語マーク数55)

国語を制する者はセンター試験を制する

なんて言ってる人がいるかどうか知りませんが、私はそう思います。

ところで、世間で話題になるのは課題文のテーマの場合が多いですよね。

小林秀雄が出された

「やおい」といったマイナーな言葉が課題文に含まれていた

リカちゃん人形の話だったとか・・・。

だけど、解いてみれば分かりますが、受験生にとって重大な意味を持つのは
そんなことではありません。

課題文の難易度や抽象度は確かに得点率に影響を与えますが、マーク国語の問題の難易度は

選択肢の紛らわしさ

これに左右されるものです。

実はすごく話題になった小林秀雄の年の問題ですが、世間で騒がれているほど
問題そのものは大して難しくはないと私個人は判断しています。

もちろん、テーマは難しいですよ。

実用から離れる方向で美の追求が行われてきた現代芸術の流れの中で
実用を極めた「刀のツバ」の持つ美しさの特異性

といった話をされたって、普通に読書が好きな高校生だって何の話をされているか
ピンときませんし、相当芸術論読んでないと分からないでしょう。

それでも、あの国語の問題は設問、選択肢が非常に素直で
比較的消去法を使って解答しやすかったと思います。
(あの年の現代文は2題目の小説の方がやっかいな問題だったのでは?)

解答者目線でセンター現代文を見ると、

やたらと長い選択肢を能率的にどう処理するか?                          (青山学院大の現代文などの私大文系の問題に比べるとはるかに長い)
⇒ 「主観」ではなく「テキスト」に根拠を求め、「万人が共有出来る解」を求める基本姿勢で各選択肢と本文との比較・対照を行い間違いの根拠を丁寧に明確にしながら消去法で解答する

ということが高得点の秘訣となるのではないでしょうか?

今年や昨年の「易しい」と言われる現代文も2年前、3年前の現代文も
そういう観点で見るとそれ程難易度に差があるようには思えません。

現代文の専門家でもないくせに、何をエラそうに、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
すみません。その通りですが、実は今回はここまでが前置きです。(長っ!!!)

ただ、現代文の問題の現状を具体レベルで理解していないと今回の話では「言いたいこと」が伝わらないと判断し長い前置きにしました。

では本題です。

英語の試験については、

「今の英語問題は正確に学生の英語力を正確に測定出来ているのか?」【試験の信頼度】
「今の英語問題は実社会で役に立つのか?」 【測定内容の妥当性】
「今の英語問題はあるべき英語教育に繋がるのか?」【指針と動機付け】

といった観点でよく話題になりますよね?

can do list に試験の結果がどう繋がっていくのか、世間の厳しい目が向けられる。
それはもちろん問題にすべきです。

でも、どうして英語だけ?
他の科目についても、同様の議論がなされるべきだと私は考えます。
現代文の問題は今のままでよいのか?
そう、今回のテーマは 現代文入試問題 To be or not to be です。

現状の現代文の問題は

①「学生の国語能力」を正確に測定することに成功しているのか?【試験の信頼度】
② 測定している能力は、今後の日本を支えていく若者の能力の中で必要なものだと言えるのか?                                  【測定内容の妥当性】
③ あるべき国語学習や国語教育に「望ましい指針」を与えるものなのか?【指針と動機付け】

【試験の信頼度】という点で言えば、100回同じ受験生が問題解答した場合にどの程度の得点誤差が生じるのかを考えなければなりませんが、残念ながらこの分野での検証が日本の受験で十分に行われているとはあまり思えません。
(実は「これまでの教育や試験」についての丁寧な検証や反省・プラス面での評価を疎かにしてすぐに「改革」に飛びつく今の大人こそが日本を駄目にしている元凶だと、私自身の反省も込めて、思うのですが・・・)

ただ、個人的な感覚で言えば、センター英語の方がセンター国語よりは信頼度については高いような
印象を持っています。これは生徒の過去問演習の点数変動を見ての印象です。

次に、【妥当性】と【指針・動機づけ】の点から現代文の問題のあり方を考えてみます。

【測定内容の妥当性】を具体的に言えば、論説文・小説を題材にして、選択肢の日本語とテキストの日本語の「言いたいこと」を比較検証して一致していないものを消去する能力を試していることがよいのか悪いのか?

ということになります。

先日拝見した「新テスト」の国語問題のサンプルを見る限り文科省は、というか現在の日本の教育のリーダー達は【測定内容の妥当性】を疑問視し、試験を「変えるべき」と考えているようですね。

グラフや資料を見て現象を分析する能力や論理的な記述力を試す問題への移行

ということになるのでしょうか。

では、どうしてそういう方向に変えようとしているのかと言えば、

① 文学色の強い文章、抽象度の高い文章の読解力よりも、様々なデータを見て現状分析する能力を測定すべき。
② 論理的に日本語を駆使する能力を測定すべき。

という2つの考えを基に、問題を変えようとしているように見えます。

これ、正しいのでしょうか?

難しい問題ですよね。【指針と動機付け】も合わせて慎重に考えなければ答えは見つからないでしょう。

私は、「行うべき変化」ではないと考えています。

確かに、昔から言われているように、

日本の国語教育は、「鑑賞」と「感想」が中心で「論理」に置いているウエイトが小さいのではないか?

という問題意識は正しいと思います。論理訓練をほとんど受けていないから英作文もトンチンカンな学生が多いわけですし。

でも、センター現代文は先ほど私が解説したように、「解答の根拠」を「論理的」に判断し「解」を求める訳ですから、「論理的思考力」を試す問題です。

念のために言っておきますが、解答方式を記述型にすることには全面的に反対ではありません。ただ、その場合には十分に【試験の信頼度】に注意しないと、誤差が大きな試験を生み、学生に大きなダメージを与えることになりかねませんから信頼できる記述問題の開発には、もっと研究が必要だと判断しています。それが十分に検証されて記述に切り替えるのであれば大賛成です。

私が変えるべきではないと判断するのは、「題材」です。

評論文や小説を読ませるよりも、資料読み取りやデータを見せて考えさせるべきだ

という意見にも全面的に反対ではないし、問題数の少ない現状の国語の問題にそういう問題を
加えて問題数を増やすのもいいのではないかと思います。

でも、今回の変化が「実社会で役に立つ」という物差しをあまりに重視しているように思えて仕方がないのです。私は、ここに大きな危惧を持たざるを得ません。

話が逸れますが、昔一緒に仕事をしたカナダ人の方がこんなことを言っていたことがあります。

「私はアメリカ人(もちろん全部ではなく一部)が好きではない。私が英語を通してアメリカを生徒に学んでもらっているのはアメリカ人の思考法を英語を学ぶことで理解し、彼らの言いなりにならない日本人を育てたいからだ」

過激ですね(笑)。ただ、彼が言っていることは、「英語学習」には「英語運用能力向上」を超えるものがあるべきだということ。

つまり、英語という比較的教養というよりスキルと考えられているものの学習の中にも、「日常」で「すぐに」「役立つ」ことを超える意味が存在しうるのではないか、ということ でしょう。(ま、彼はアメリカ人の言うことを盲信して従米にならないことで役に立つと言ってるのかもしれませんが)

国語教育が、「日本語を正しく使えること」「実社会でのデータ理解・処理能力向上」に役立つべきだというのは勿論否定しませんが

国語教育には「日常」で「すぐに」「役に立たない」かもしれないが、それを超えた意味が存在する と私は思います。

端的に言えば、これから実現しようとしている変化は、PISAテストでの日本人学生の成績順位を上げることに役立つ方向性で進んでいるのではないか?

という危惧を強く持ってます。

あれ?どこかで同じようなことを言った気が?

あっ、国際ランキングを上げようとして改革を行っている大学の変化でしたね(笑)。

「長い割に言いたかったのは結局それ?」

はい(笑)。

でも、私自身、若い頃に読んだ様々な文学作品や「小難しくて簡単に分からないし、何の役にたつのか分からない小林秀雄の評論」なんてもののおかげで、今があると思っています。
クセジュ文庫のリオタールの現象学なんて、翻訳のせいもあるかもしれませんが、何を言っているのか分からなくて必死で考えた記憶があります。「分からない」と認めることが苦しいが故に努力したのも今ではいい想い出ですし、そのおかげで、少しは考えることを大切に思うことが出来る大人になれたのかもしれないし、鍛えられたのかもしれないし、そういう日々がなければもっと救いようのないバカになっていたかもしれない、なんてことを感じています。

現代文入試を変えるべきではないと考えている現代文教育保守派の皆さん(いるのかな?)、負けずに頑張って欲しいです!

この記事を書いた人

ESN英語教育総合研究会

ESN英語教育総合研究会

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