――「前思考」という最後のコモンズと、国民を救う社会への転換――
教育課程部会 生活、総合的な学習・探究の時間ワーキンググループによる第3回【開催日時:令和7年12月26日(金曜日)9時30分~12時00分】の資料の公開を受けて、現場目線で論点を整理してみたいと思います。
この資料については、過去に提示されたモデルよりも数段完成度が上がっていることを感じました。と同時に、やはり危うさも感じるところがあったので少しまとめてみました。
文科省資料の質の高さを認めながらも、課題だと感じる点について論じてみます。
1.序論:探究は希望か、それとも新しい格差装置か
文部科学省が示した「探究の質の向上」に関する検討資料を読んだとき、私は二つの感情を同時に抱きました。
一つは、ここまで整理された教育政策が、ようやく公に提示されたという安堵であり、もう一つは、この精緻な設計が、そのまま社会に投下されたときに起こるであろう危うさへの強い懸念です。
文科省資料は、これまで「総合的な探究の時間」として曖昧に扱われてきた学びを、「自律的な価値創造のプロセス」として明確に定義し直そうとする試みであると評価できると思います。探究をブラックボックス化された属人的実践から切り離し、思考の循環として構造化し、評価可能な公共的教育へと引き上げようとする姿勢は、行政施策として極めて合理的だと言えるでしょう。
しかし問題は、この合理的な教育システムが、日本社会の既存の構造の中に置かれた瞬間、別の顔を持ち始める点にあると考えます。ここでは、文科省資料の価値を私なりに正当に評価したうえで、それが歪められてしまう社会的条件を明らかにし、教育だけに過剰な期待と責任が押し付けられている現状を問い直したいと思います。
私の発信が最終的に目指すのは、「企業や既存の大学を救うための教育」ではなく、「国民一人ひとりの生活と尊厳を救う社会」への転換です。
2.文科省資料の意義:教育を属人性から解放する試み
まず強調しておきたいのは、この資料が持つ公共政策としての完成度の高さです。あくまで私の感想にすぎませんが、過去の資料と比べても完成度が高いと感じました。
第一に、探究における「知の活用」を言語化した点は画期的ではないでしょうか。これまで教員の経験や感覚に委ねられてきた探究活動が、仮説設定・検証・対話・振り返りといった循環的プロセスとして明示されたことで、教育の質は個人の力量から切り離され、全国的な共有可能性を持つようになりました。実は過去に偏差値を教育に導入した桑田昭三氏の出発点も、進路指導を現場教員の経験値や勘ではなく、科学的なものにしようとする試みであったことはあまり知られていません。私はこの件を元私学の教頭や副校長をされていた鈴木先生からご教示頂きました。今回の文科省の発信にも、桑田先生と同じく、子ども達のWell-beingを願う熱意を感じます。
第二に、教科を「探究のためのリソース」と再定義した点も重要だと思います。教科知識を目的そのものではなく、問いを深めるための道具として位置づけることで、知の断片化を防ぎ、統合的な理解へとつなげようとする発想は、極めて現代的です。残念なことに、中学以降の教育現場には自分の教科のことしか考えられないという教員も少なからずいますし、教員の学びの幅が狭いことも、自分を含めて強く感じることがあります。探究のためのリソースと書きましたが、学校という共同体は今後、教科教育による存在意義はドンドン失われ得ると思っています。これは生成AIやオンライン授業の普及によって不可避の未来だということは、コロナ禍以降の急速なテクノロジーの変化を見れば明らかではないでしょうか?教科をリソースと位置付ける今回の資料の趣旨は間違っていないと思います。
第三に、成果物だけでなく試行錯誤や対話のプロセスを評価対象に含めたことは、学習者の内面の営みに光を当てる試みとして高く評価されるべきだと思います。ただし、太田堯先生の言葉を借りれば、『評価は成長の場で伴走する人間』によるものでなければならない、と思います。ここは、どこに行っても通用するような標準化した評価としての観点別評価などとは対極にある評価、つまり学習者と伴走者としての大人の対話や日々のやり取りに委ねられるべきものだと考えます。ここで属人性を排除することは、教育という営みそのものを死においやる暴挙だと私は思います。
いずれにしても、今回の文科省資料に見られる一連の発信はすべて、「教育をブラックボックスから公共財へと引き戻す」ための、真摯な努力の結果だと感じます。
3.偏差値後社会に生まれた、新しい階層化
しかし、ここで一つの問いが生じます。この合理的なシステムは、どのような社会の中で機能するのか。文科省の仕事ではないのかも知れませんが、市民としての我々はこの問いに真摯に向き合わなければならないのではないでしょうか?
偏差値という単一の数値が教育を支配していた時代が終わりつつある今、探究評価が重視するのは、「問いの質」や「社会的関心」、「語りの洗練度」です。だが、これらは本当にすべての生徒に平等に開かれているのでしょうか?
社会学者ピエール・ブルデューが指摘したように、人が自然に身につける関心や語りの様式は、家庭環境や親の学歴、社会的ネットワークといった文化資本(ハビトゥス)に強く依存しています。探究評価は、この文化資本の差を「主体性」や「意欲」といった個人の資質に翻訳してしまう危険を孕んでいるように思います。
その結果、格差は「不運」ではなく「自己責任」として内面化され、人格そのものが静かに序列化されていく。これは、偏差値競争時代にも見られた流れで、桑田先生の最初の思いとはかけ離れた形で偏差値が広まったように、今回も、発信者の思いとは異なるかたちでの新しい階層化に繋がる可能性が極めて高いと私は判断します。偏差値がよかったと言いたいわけではありません。偏差値の時代も親の学歴やSES格差は歴然としてあったということは松岡亮二氏らの研究によって実証されています。もちろん資源差は当時も存在していました。それでも建前としては単一指標で透明だったと思います。極端な話、当日の試験の結果が悪ければ、どんなに裕福な家庭の子でも受験では合格できない、という分かりやすい正義があったのと比較すると、新しい階層化は格差をより華麗な活動によって粉飾しかねないリスクがある、ということです。(もちろん、体調不良によって力が発揮できないなど一発選抜の暴力性を肯定している訳ではありません)
4.価値創造という言葉が抱える哲学的緊張
文科省資料の中核に据えられている「価値創造」という概念も、慎重に扱う必要があると感じました。
哲学者マルティン・ハイデッガーは、現代技術の本質を「総置(ゲシュテル)」と呼び、人間そのものが資源として動員される危険を指摘しました。探究において、生徒の問いや関心が「価値を生み出すもの」として最適化されるとき、そこには【人間】がシステムを回すためのエネルギーとして扱われる側面が生じます。
また、ハンナ・アーレントが区別した「活動(Action)」と「労働(Labor)」の観点から見れば、本来予測不可能な始まりをもたらすはずの思考や発話が、評価と結びついた瞬間に、目的達成のための作業へと変質してしまう。
ここで問題なのは、価値創造そのものではありません。価値創造だけが正当化されるとき、人間の思考のあり方が狭められてしまうことだと思います。
5.「前思考」が失われるとき、主体性は形骸化する
この問題を、精神医学および認知科学の知見から捉え直してみたいと思います。
心理学・認知科学の文脈では、前言語的/暗黙的(implicit)な処理として論じられます。臨床的にも、言語化以前の感覚・情動のまとまりが思考を方向づけることは広く観察されます
代表的なのが、いわゆる二重過程理論(dual-process theory)です。この理論では、人間の認知は大きく次の二層から成ると整理されます。
・高速で自動的、身体感覚や情動、直感に強く依存する処理(自動処理/System 1)
・時間を要し、言語化・論理化を伴う熟慮的処理(制御的処理/System 2)
さらに創造性研究や精神医学では、この二層のあいだに、「熟成(incubation)」と呼ばれる重要な過程が存在するとされています。
これは、意識的に問題を考えていない時間に、非意識下で連想・再編成・意味づけが進行する現象です。
この熟成過程は、夢見、ぼんやりした想像、身体感覚を伴う違和感や引っかかりなど、明確な言葉にならない表象として経験されることが多く、精神医学では「前言語的表象」「暗黙的認知」として扱われます。ところが、探究学習が評価や成果物の提出を前提に急速に進行する場合、この熟成の時間が十分に確保されないまま、結論やアウトプットが求められる状況が生じやすくなります。
その結果、生徒は、
・まだ確信が形成されていない段階で結論を言語化する
・違和感や迷いを抱えたまま、もっともらしい説明を組み立てる
・評価に適合しやすい「無難な問い」を選択する
といった状態に追い込まれやすくなります。
精神医学の観点から見れば、これは思考が十分に内在化される前に、外在的な要求によって固定化される状態であり、本人にとっての「選んだ」「引き受けた」という感覚が育ちにくい。内省とは、単に思考量を増やすことではありません。むしろ、非意識的な連想や直感がゆっくりと統合され、「これが自分の考えだ」と感じられるまでの時間的・心理的余白を守ることにこそ、その本質があります。この余白が奪われたとき、主体性は形式としては存在しても、内側から支えられた実感を失い、形骸化していく危険を孕むのです。
(注:二重過程理論については 日本語概説(補助):金子(2014) 熟成(incubation)効果:Sio & Ormerod (2009) など)
なぜ、そうなってしまうのか?そうならないように現場の教員が努力したり導いたりすればよいではないか?
そういう声も聞こえてきそうですね(笑)。もちろん、現場の教員は様々な形で寄り添うことで子ども達の内省支援を行います。しかし、それでも、以下のようなことを具体的に考えてみれば、恐らくそんな単純な話ではないということがお分かり頂けるのではないでしょうか?
・高校2年生までにある程度探究活動の目途をつけて、それらの活動を形にすることを求める年内入試への対応を子ども達も教員も求められるのだとしたら?時間的制約によって余白は阻害される可能性が極めて高い。
・生徒の活動を、評価されるものへと変化させることをビジネスにする教育産業がドンドン増えている現状は変わる?余白を大事に、なんてことがビジネスになるわけがない。
・そもそも一人一人の生徒がそれまでの多様な人生経験から自分が選んだと発した問いを学術や企業PBLに繋ぐようなコンテストや入試が増える状況で行わせた選択を子どもが選んだと言える?
・そもそも、人生の中で自分にとっての大きな問いに直面するのは、18歳前後の時期だけなのでしょうか?この社会は国民にそういう問いを許容する成熟した市民社会ですか?
6.誰が悪いのかではなく、なぜ共犯になってしまうのか
こうした状況を生み出しているのは、特定の誰かの悪意ではないのかも知れません。むしろ、それぞれが合理的であろうとした結果として生じた、責任転嫁の連鎖だと思います。もちろん、私を含む大人の罪は軽くないと思います。
政治や経済の側は、組織の硬直化や雇用不安といった構造的問題を、教育に「人材育成」として委ねてきたのではないでしょうか?これまではスペックの高い従順な労働者を偏差値教育という環境で消費してきた結果、現在の停滞に直面してきたのは、一体誰の責任なのでしょうか?少なくとも、子ども達でも教育の責任でもないと思います。従来通りでは通用しないから、新しい教育による人材育成を!と言うのはよいですが、自らの組織の利潤のために必要な人材の育成にお金も使わず、公教育にそれを押し付けるのは、もちろんお金を使わないという意味では合理的ですが、果たして正しい市民のやることでしょうか?そして、散々教育は安上がりに、を続けてきた政治の責任も重いと思います。満員電車という厳しい環境を教育や学校に強いてきた政治が、人口減だから教員を減らせ、コストをカットしろ、今までのようにはいかない、と言うのはあまりにも身勝手過ぎるのではないでしょうか。
大学は知の拠点として期待されながら、入試や評価のブラックボックス化によって教育の説明責任を曖昧にしてきたのではないでしょうか。PISAの結果を引用するまでもなく、日本の高校生までの学力は決して低い訳ではない。研究から逆算してリニアな道を描くことを『高大接続』と呼んでいますが、それは誰のための接続なのでしょう?シチズンサイエンスなどの営みで市民社会に積極的に関わろうとしている大学教員・研究者がいることも知っています。しかし、あまりにも少数に見えます。大学を守ることを、子ども達や国を守ることよりも優先しているようにしか見えないことも悲しいことに少なくはありません。
そして市民社会、特にリベラル層もまた無関係ではないです。これは私のような教員も特に考えるべきことだと思います。偏差値競争を経験し、その虚しさを感じた人々が、「せめて子どもには意味のある学びを」と願うとき、その善意は結果として文化資本の差が可視化されやすい競争へと子どもを送り出すことになる可能性についてはどう考えるべきなのでしょうか。自分の子どもだけは幸せに、という気持ちは私も親なので痛いほど分かりますが、それでは結局誰一人幸せにならない社会に繋がるかもしれないということは、考えるべきなのではないでしょうか?
誰もが自分の限界や不安を「教育なら何とかしてくれるはずだ」と思った瞬間、私たちは同じ構造に加担してしまう。この意味で、現在の教育をめぐる状況は共犯的だと言えると思います。
だから、私は、『学校の非常識』『学校の古さ』だけを批判する教育関係者を信用する気にはなれないと思っています。
そして、厳しいようですが
・機能不全が指摘される一部の高等教育機関を整理・統合し、実務や専門性に基づく高等教育機関へと再編すること。エッセンシャルワークの給与も含めて改善すること。
・生産性向上を阻む構造を温存する企業・制度を退場させること。
・人をコストとしてみなすような企業・制度を改めて改善すること。
要するに、職を失っても生活が保障され、何度でも学び直せるフレキシキュリティ型の社会保障を整えることにより、組織ではなく国民一人一人が守られる社会に向かうべきだと強く思います。
これは、「会社を救う政策」から「国民の生活を救う政策」への転換です。18歳一発選抜の圧力が弱まってこそ、教育は「遅い思考」や前思考の余白を取り戻せるのではないでしょうか?
もちろん、モラトリアムを延長しろ、と言いたいのではありません。18歳で選抜したとしても、その後も何度でもチャレンジができる社会。
ある予備校校関係者が『予備校の理念は再チャレンジである。それを忘れたら存在意義はない』と仰っていたのを覚えています。
探究への対応、年内入試への対応もビジネスとして否定しませんが、再チャレンジが可能な社会の構築に教育関連の企業も是非尽力して欲しいです。
探究を巡っての発信を見ていると、『Society 5.0が分かっていない奴らはダメだ~!』といった、意味不明な言説も少なくないように思います。
そんなところに、公教育の外で日本の教育を支えてきた人たちの存在意義などない、と私は強く言いたいです。
7.教育を変えるには、出口の社会を変えなければならない
探究学習の掲げる理想は、偏差値教育よりはるかに意義があるし、魅力的だと思います。
それでも、今の日本社会の中でそれが行われる時、偏差値という、教員の主観から生徒を解放したいという一人の教員の思いとはかけ離れた展開を見せたように、探究も同じことになると危惧せざるを得ません。
ただ、こうした発信を現場の一教員ごときが行ったくらいで社会の流れが変わるとも思えません。それでも、私たち教員は一人一人が考えなければならないと強く思います。
こうした時代の中で私たち教員にできることは限られていると思います。教育が人格評価を含めた新しいスクリーニング装置になるのを防ぐためには、学校の内部改革だけでは不十分でしょう。社会の出口構造そのものを変えなければならない。
ここでも再三私が発信してきたように、日本社会がフレキシキュリティ社会にUpdateしていくしかないと考えています。この方向性を私に示してくれたのは2018年の関西のある先生です。
ただ、現状を見ていると、日本社会がそこに向かうにはまだまだ遠いようにも思います。私の教員人生もカウントダウンですが、逃げ切ろうではなく、なんとか教員も子ども達もこの時代を生きていけるにはどうしたらよいのかを日々考えているつもりです。
時代が変わっても、社会の中で強く楽しく生きていける力を生徒達には学校という場も含めて鍛えて身につけて貰うしかありません。だから、今回の文科省発信を戦略的に捉えて、有名大学に合格するということも、一つの選択肢として私は否定しません。もちろん、社会にとってエッセンシャルなスキルを身につけることに時間を使うことも素敵なことだと思います。もちろん、エッセンシャルワークを軽視する現在の日本の現状をどこまで伝え、市民として微力でも変えていかなければ、という自覚は忘れないようにしたいです。
また、『探究』は何歳で始めるとか、何歳までに完成させるとか、そういったものではないし、『課題解決』についても、自らの身体性を伴わないものに無理に自分を合わせる必要もない。簡単に言えば、『魂まで売る必要はない』ということを私たちは子ども達に伝えておくべきだと思います。私にフレキシキュリティを教えてくれた関西の先生は30歳超えてから色々とモノを考えるようになったと言っていました。人の人生はどこに転機があるかなんて生きてみないと分からないし、いくつになっても変わっていくべき存在、動的平衡という本質を持つのが私たち人間なのだと思います。大人がワクワクと変われる社会を目指したいですね。
8.アジールとしての教育――現実への適応と魂の保全
先ほども少し触れましたが、学校が社会構造の一部である以上、生徒を現実から切り離された理想論の中に置くことは無責任だと思います。偏差値教育が強くなってきた時代に、牧歌的な学校観の上に胡坐をかいていた教員の愚を繰り返すべきではないと思います。だからこそ必要なのは、社会への適応と、内面の自由を同時に守る教育だと現時点での私は考えています。
特に制度的な自由度の高い私学では、現時点ではこうした実践が比較的行いやすいかもしれないですね。しかし、ここで言う「アジール」とは、私学に限られた特権ではないはずです。本来、すべての教育に内在していてよい原理ではないでしょうか?
外面では制度を読み解き、生き延びるための具体的な武器を手に入れる。同時に、評価から切り離された前思考の時間を聖域として守る。効率化されない「非生産的なアイドリング」を肯定すること。それは、誰にも魂を売り渡さないための護身術として私たちが子ども達に教えられる数少ない処世術なのかも知れません。
9.結論:私たちは、どこまでを教育に預けてきたのか
文科省の探究資料は、優れた地図であると思います。しかし、その地図に描かれていない混沌の中にこそ、人間としての主体性は宿るのだと思います。
(主体性って企業もよく使いますね(笑)。どうしても笑ってしまうのですが、本当に主体性など発揮されたら無事では済まない経営陣ばかりではないですか、日本は?(笑))
問題は、誰が悪いかではない。私たちが合理的であろうとするたびに、どこまでを教育に預けてきたのかという問いであると思います。
社会が何度でも人生を組み直せる構造を持つその日まで、学校というコモンズを守ること。システムを使いこなしながらも、「これは自分が選んだのだ」という確かな痕跡を学生生活に時間を限定せずに残す市民を育てること。
そのための「積極的な無用性」を保持することこそが、探究を通じて評価対象が拡大されてしまう時代における、教育の最も静かで、最も本質的な抵抗であるように思います。
この記事を書いた人
esn


